真理の継承 ――内村鑑三から矢内原忠雄へ
日本思想史に残る書物、『歎異抄』には、親鸞自らが師への帰依を語った一節がある。第二条、「よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」。法然聖人の教えに従って後悔はないと述べる箇所。これは、師への盲従を告げるものではなく、弟子が、師から伝えられた真実を我が身において深く受け止めた後に、自らの全存在を賭けて語り出す実感の言葉である。仏教が日本の精神に根付いていく過程を示す証言ともいえよう。信仰の真理は、このように人格の深い交わりを介して伝えられてゆく。我々に近い時代に、そのような継承の証言を見出すことはできるであろうか。近代は人を個の内面に孤立させた。専ら自己への集中を追求する現代において、特定な人格を導き手とし、その言葉に自己の生涯を沿わせようとする証言は比較的稀である。しかし、皆無ではない。
矢内原忠雄は「内村先生第三周年記念講演会」(一九三三)で、「基督信者の世に於ける生活態度は地の塩世の光たることにある」と語った。さらに、「如何にして彼は地の塩世の光たりうるか」と問いかけ、それに「悲哀の人」という言葉で答えている。この年のいくつかの講演は、この「悲哀の人」との題のもとに纏められ、彼の個人誌『通信』第六号に掲載された。「悲哀の人」、この言葉は、イザヤ書五三章の「彼は(かなしみ)の人にして、病患(なやみ)をしれり」から採られている。「悲哀の人」、それは、世の偽りを見透して真実を語り、迫害されることによってその罪を代わりに負う人のことである。矢内原は誰よりもまずイエスを「悲哀の人」として指し示した。さらに、先だってエレミヤの生涯がそうであったし、下って内村鑑三の生涯もまたこれにあてはまると述べた。こう語った矢内原忠雄もまた、「悲哀の人」ではなかったか。日本が戦争へと邁進して行く時代に、また敗戦後の再建期に人々に訴えた矢内原忠雄の活動は、師内村の信仰の戦いを引き継ぐ形で、キリストの福音がこの国に根ざすことを求めゆく闘いであった。真理の継承は、ここでもまさしく人格の深い交わりに基づいている。その消息を窺うために、内村鑑三と矢内原忠雄の交わりを先ずはその出会いから辿っていく。
一、出会い
二人の人の人格を結ぶ交わりには、出会いが重要な意味を持つことがある。内村鑑三と矢内原忠雄の場合も、弟子は師との邂逅によって震撼される経験を味わっている。矢内原にとって、まず内村の娘ルツ子の死がそのような出来事だった。故郷を離れ一高で学寮生活を送っていた矢内原は、内村の雑誌『聖書之研究』を一年購読した後、内村宅隣接の今井館で催されていた日曜聖書講義への参加を許される。ルツ子の死は、入門の矢先の出来事だった。葬儀に参列した矢内原は、「今日のこの式はルツ子の(天国への)結婚式」という内村の言葉に驚く。さらに埋葬の場に臨んで、内村は一握の土を?んで高く掲げ、「ルツ子さん万歳」と叫んだ。矢内原は、ルツ子とほぼ同年だったが、その光景に雷に打たれたように全身を深く揺さぶられる。信仰とは、生半可な気持ちで向かうことの許されないものと実感した矢内原は、内村の説く聖書の言葉にいっそう集中していく。
これと並んで重要な第二の出来事は、父の死を経て後の内村宅訪問である。肉親の死の問題は、やがて矢内原自身の問いとして受け止め直される。父母思いの矢内原は両親に福音を伝えたいと願っていた。しかし東大へと進学する時期に母、ついで父と、次々に世を去る。母の死に際しては、ルツ子の葬儀の余韻の内にあったため、喪失の悲哀を故郷の以前の景色に紛らわせ、慰めを見いだすことができた。しかし、一年を経ずして迎えた父の死は、ことに、信仰を告白せずに亡くなったその救いの問題は矢内原の心を悩ませた。独りで問いを担いきれなくなった矢内原は、意を決して内村のもとを訪れる。しかし内村の答えは、「私にも分からぬ」という予期せぬものだった。失意の内に辞する矢内原に、内村は、問いを抱きつつ自ら信仰の生涯を歩むことの大切さを説く。「先生にも分からぬことがある」という事実は矢内原を驚かせたが、師の言葉に、自らの経験の他に信仰を学ぶ道はないことを悟る。自然科学を学んだ内村は、信仰とは「実験」に他ならないと語っているが、矢内原もこれを自らの歩みに受け止めてゆく。自らもまた「実験」という言葉を用いている。
矢内原の歩みに影響を与えた出来事として、以上の二つが度々挙げられる。矢内原自身もくりかえしこれを語っている。だが、これにもう一つを加えたい。
矢内原忠雄が内村鑑三に入門した一九一一年一〇月一日から、東京帝国大学を卒業し、住友に職を得て新居浜に赴任する一九一七年四月まで、矢内原は内村の聖書講義に通い、直接教えを受けた。その当時の矢内原忠雄の思考と信仰の歩みは、全集第二十七巻に収められている。その記述に内村鑑三の言葉がどのように響いているか、つきあわせると興味深いが、一つの例を挙げよう。
一九一五年から一九一六年の内村の講演の中に、金貞植(キムジョンシク)という名が見いだされる。一九一五年五月三〇日に、東京の朝鮮基督教青年会で行った講演では、内村の自宅を訪問する同心の友として紹介し、また一九一六年二月二十七日の柏木聖書講堂における「遠人(たびびと)の接待(もてなし)」と題した講演では、「先頃も或る篤信の朝鮮人の来訪を受けた」と述べて、その人の来歴を紹介している。「彼は事ありて獄に投ぜらるゝ事三年、其間刀は毎日彼の首の上に置かれた、神の前に出るは今日か明日かと待ち望み乍(なが)ら新約聖書を通読すること前後八回、其の深き教はよく彼の咀嚼する処となつたのである」と、ペテロ第一の手紙を講解する文脈のなかで述べている。
この人については他にも語られることがあった。一九一六年の五月七日に、若き矢内原忠雄は、内村の集会から帰って感動さめやらぬ思いを直ちに綴っている。「余の最初の聖書」という熱の籠もった文章である。
「五月七日の安息日に先生は『余の最初の聖書』といふ御話をせられた。手にせらるる赭皮の英訳聖書一巻、これこそ彼のクラーク先生が横浜着早々聖書会社で買ひ求められた五十部の中の一つである」。内村鑑三はそこで、札幌農学校開設にあたりクラークが長官黒田に向って、徳育のためには聖書を教える外に道がないと主張し、これを貫いたことにふれ、また皆がそう主張すべきであると述べた。矢内原は、「僕はその赭皮の旧い聖書を此上なく尊く思つた」と記し、さらに金貞植の登場を語る。「次に温順な顔の長(たけ)高き人が教壇に立たれた。この人は金貞植といふ朝鮮人で年歯五十許り今は東京で朝鮮青年会の幹事をして居られる。この方は曾て日本党の政治家として朝鮮を改革せんと尽力して居られたが反対党の為に囚へられて牢に投ぜられた」。矢内原は、詳しく彼の来歴を記し、彼の開放の時に聞いたのは日露戦争当時の仁川の海戦における砲声であったと報告している。「『首を斬られるのは今日か今日かと思ひつつ三年間も牢に居て聖書を読んだこの人には真の処がわかつたのである』と曾て内村先生が話された方である。その金先生が不自由な日本語で以てイエスキリストについて我々に実験(傍点)を語られたのであった」(傍点筆者)。
金氏もまた、内村鑑三に倣って自分の聖書を掲げたが、それは、彼のかつての獄衣であった青い布で表装されていた。「ああ紺色の獄衣の表装せる聖書を僕は非常に尊く思つた。僕等の感動は之で尽きなかつた。内村先生のお祈は感謝の涙に咽ばれた御声であつた『私共は召されてイエスキリストの弟たるの特権が与へられました。…
神は全世界に於て人種の如何言語の如何を問はずあなたを求むる者にあらはれ給ひて多くの者をあなたに召し給ひつつあるを心より感謝します…。』… ルツ子さんの御葬式の時にも先生の御声は涙声ではなかつた(勿論涙はあられたに違ひないが)、今日の御声は確かに涙声であられた、神がその愛を示し給へるに対する嬉し涙であられた。『余が最初の聖書』を手に入れられてより三十八年間の生涯を顧みての感謝の御涙であられた、神の僕のよろこばしき涙であられた。…赭皮の聖書、紺衣の聖書!! 実に聖書ほど尊いものは世の中にない、…」。
矢内原の文章は若者らしい感動を綴っている。ここでは、これに続く結びの言葉に注目しておきたい。「僕の今日得た感動は実に多く且つ深くて既に一四枚も書きつづけた上に尚詳しきことを記すを得ない。(少し疲れて来た)」と微笑ましい告白をした後に、こう綴っている。「唯僕の最も切に感じた処は、/聖書を以て一生を押しすすむこと、/聖書を以て朝鮮人の中に入ること、/神の僕として感謝の涙を流すに至りたきこと。」矢内原は、ここで三つのことを書き留めたが、これらは皆、後に矢内原の生涯において実証されていくことになる。
メディアの発達した今日、人と人の間が容易に結ばれる時代を迎えている。しかし一方でむしろ、濃密な人間関係を敬遠する人々が(ことに若者の間に)増えている。そこに窺える自己を内に閉ざす傾向は、やはり社会や共同体の命を衰退させる一因であろう。そのような時代風潮の中にあって、内村鑑三に対する矢内原の関係は、多くの示唆を与えてくれる。矢内原は、東大卒業後、新居浜での新生活と信仰の証言に尽くす。その後、新渡戸稲造の後任として東大に呼び戻され、その準備のために欧州へ留学するまでの半年、また帰国して、植民政策を講ずる気鋭の学者として歩み始めてから師内村鑑三が永眠するまでの七年程が、師の謦咳に接した期間である。実は、矢内原もまた、師との関わりにおいて、自覚的に控えめな態度を通した。自らを内村の直弟子に数えず、むしろ邪魔をせぬように距離をおいていたと告白している。表面的な交わりの濃淡ではない。師が自ら先ず真実を貫き、弟子も、師と仰いだ人格に対して生涯にわたって誠実を尽くすその姿勢をとおして、信仰の真実は人格から人格へ伝えられる。人格に関わることは、命の遣り取りとして直に伝える他はない。そのような遣り取りを介して、矢内原は内村の信仰と思想の核心を受け継ぎ、これを自らの信仰と思想において証する生涯を生きることとなった。
二、国家の理想
矢内原忠雄が内村鑑三から受け継いだものとは何か。矢内原が東大を卒業する一九一七年以降、内村鑑三は、宗教改革の記念講演を経て基督再臨問題へと集中し、矢内原忠雄は、新居浜の別子銅山における新生活と職場でのキリスト教証言へ、それぞれの道を辿ってゆく。しかし、その後の両者の働きを今日から振り返ると、二人は多くの点で歩みをともにすると言うことが出来る。予め、箇条書きにまとめてみるならば、(一)信仰と学問の問題(自然科学と社会科学)、(二)社会との関わりの問題(ジャーナリズムや学問・教育)、(三)国家の在り方についての問題(不敬事件や国体への発言)、(四)戦争への対峙と平和追求の問題(非戦論や植民政策)、(五)信仰の純粋と宗教改革の問題(日本的キリスト教や無教会)。それらはどれも、深く扱うならば、充分な紙幅を要する。それ故ここでは、そうした問題を見据えつつ、まずは「国家の理想」について、続いて「平和論の行方」について、さらに「宗教改革とエクレシア」について、三つの主題をのみ扱うことにする。それらを短い言葉で纏めるならば、「真実」につくこと、「虚偽利欲」との戦い、であったといえよう。
歴史において、一人の思想や事績が簡潔に一語で記憶されることがある。内村鑑三における「(一高)不敬事件」、また矢内原忠雄における「矢内原(東大辞職)事件」はその典型だが、この二つには一つの筋ないし系譜を見定めることができる。両者がともにするのは狭隘な民族主義、国家主義との闘いである。
アメリカ遍歴から帰国した内村は、宣教師との齟齬を初めて味わった新潟北越学館での短い教育経験を経て、一八九〇年、一高に嘱託教諭として赴任した。折しもその年の暮れ、一高に宸署の教育勅語が授与され、年明けにはその奉読式が催される。内村は躊躇しつつも式に出席するが、勅語の前で最敬礼をする式次第に、宗教的礼拝に通じるものを感じ、咄嗟に僅かばかり頭を下げた。この不十分な敬礼が、国粋主義的な教員生徒の目にとまり、社会的事件にまで発展してゆく。直後に病を得て床に伏した内村は、後日、知らぬ間に依願免職の手続きが取られていたのを知る(余談だが、この辞職願は、東京大学教養学部の博物館に残されている)。看病疲れで妻加寿子は亡くなり、内村は職と家庭を一度に失ってしまう。事件直後の内村は、大阪、熊本へと転々とし国中に安住の地を見いだせぬ境遇を味わった。キリスト教会すらも、内村の態度を不徹底と見て積極的に擁護しなかった。これが内村が無教会へと歩みを進める外的な契機となる。内村は教育の道を断念し、著述とジャーナリズムへ転じていく。この出来事は、日本が天皇制疑似宗教国家へと基礎を固めてゆく一時期を画する事件に数えられることになる。しかし、内村はその後もなお『万朝報』等の誌面で筆鋒鋭く「足尾鉱毒事件」を告発し、また「非戦論」を掲げて、その「利益虚偽」を告発し、時代批判を展開することができた。身に直接の危難が及ぶ事態が予感されるのは、大正を過ぎ、大逆事件の頃に至って漸くだが、その頃、すなわち矢内原の時代になると状況はより深刻なものとなってゆく。
不敬事件は、東大教授井上哲次郎による「教育と宗教の衝突」論争へと発展してゆく。その際に内村は、キリスト教は国体と相容れないとする攻撃に正面からは応ぜず、「教育勅語」を掲げる人の生活がその内容に一致しない「虚偽」を問題視する形で応えている。その後の「日本の国体と基督教」(一九一二)にも伺えるように、内村は比較的用心深い発言を通しているが、その問題性は見ぬいていた。晩年に、国家の滅亡の兆しは人を神とすることにあると指摘している。日本の教育政治の腐敗、その根本の訳は人間を神様として拝ませるからだ、と述べ、偶像崇拝は怖ろしいと語っている。(石原兵衛『身近に接した内村鑑三』下)。この洞察を、矢内原は学問の主題としてより具体的な形で表現してゆくが、そこに内村の精神の継承を跡づけることができる。内村鑑三は、聖書研究に生涯打ち込んだが、生物学を学んだ者として進化論の問題をも最後まで追求し、両者のどちらか一方に安易に還元して事足れりとする態度を採らなかった。矢内原の場合にも、一見信仰と立場を違えるような学問に、内村と同じ姿勢で対している。信仰に並ぶいまひとつの立脚点として社会科学、とりわけマルクス主義(その唯物史観ではなく経済学)が彼を助けた。その方法は、彼に時代を洞察する視点を与えた。
内村鑑三が自らを基礎づけた信仰者の経済的基盤は、彼が学んだニューイングランドの自営商工業者のそれであった。彼の詩「桶職」や、毎夏を過ごした星野旅館へのために揮毫した「商売繁盛の秘訣」の書にその志向を窺うことができる。また「デンマルク国の話」に語られるように、国外への(横方向の)侵攻ではなく、国内での「縦方向の」発展を提唱した。一方で、鉱毒問題で古河、陸奥の両者を告発したように、藩閥政府のもとでの殖産興業と軍備拡大は、そのような平民の生活を蔑ろにするものとして批判した。しかし、国家を超えた視点からするならば、世界はすでに、帝国主義の世界規模での競争と、そのもとで無産者が増大していく方向へ、大きく転換してゆきつつあった。矢内原は、そのような時代情勢を学問の視点で見つめ、現地調査とその理論的分析によって自らの植民政策論を基礎づけてゆく。
代表作『帝国主義下の台湾』(一九二九)を初めとする一連の著作は、当時の被植民者に対する日本国家による抑圧の現実を明らかにする。一方で、その指摘は、そのような国際的規模の抑圧のもとで、拡大と安寧を志向する日本の国家と社会の問題性を指摘することに繋がる。矢内原は、これに信仰の視点を重ねた。イザヤをはじめとする旧約預言者に学びつつ、国際間の交渉は人間的な欲望の原理を超えた宇宙的道義に基づくべきことを説き、その観点から日本の大陸進出の不義と、密かな欲望を後盾として支える天皇制国体論の問題性を指摘した。これを扱った「日本精神の懐古的と前進的」(一九三三)は「悲哀の人」と同じ頃、僅かに先立って公にされている。そうした発言や著作はまとめられ、『民族と平和』(一九三六)の表題のもとに刊行されたが、これは国体論者の執拗な攻撃の的となる。翌一九三七年七月、盧溝橋事件の勃発を受けて、矢内原は「国家の理想」を『中央公論』九月号に執筆する。これが当局によって全文削除とされたことを知り、矢内原はさらに、畏友藤井武の記念講演会において「神の国」と題し、虚偽へとねじ曲げられた日本人の国家思想への審判の言葉を語る。「日本の理想を生かす為めに、一先づ此の国を葬って下さい」という言葉は、矢内原の東大辞職を導いたが、それは覚悟の上の発言であった。後日、矢内原は「内村先生の御受けになった事は、私は
… 既に受けてしまった」と語っているが(「ハガイ書を読みて内村先生以後の無教会主義に及ぶ」一九四三)、これは、彼の天皇制国家主義との戦いを、内村鑑三から引き継いだという自覚を証言する。
三、平和論の行方
日本の朝鮮出兵を義戦と信じ、「日清戦争の義」を公にした内村鑑三は、戦闘の経過とその結末を知り、慚愧の思いで前言を撤回する。戦争は(内村が希望した)朝鮮の独立どころかその住民への蹂躙をもたらし、戦勝国にも民心の腐敗堕落を導いた。欲望の動機を隠し、高尚な名目をもって戦端が開かれようとも、戦争はその罪の現実を暴く。以降内村は、日露戦争、第一次世界大戦を通じて「非戦論」の立場を貫き通す。
内村にとって平和とは、単に戦いのない状態ではなく、社会の内にまた対外的に命と真実が溢れゆく現実を言うものだった。しかしこれを「万朝報」等の紙面で社会批判として華々しく展開した後、内村は専ら『聖書之研究』誌の執筆刊行と自宅における聖書講義に専念してゆく。このような内村の後年の活動は、一見社会批判の表舞台からの撤退に見え、そうした批判もあった。しかし、平和の福音を人の心に植えようとする活動は、社会の単なる表面的な修復に勝る積極的な救済の志に立つもの、と内村は信じ、社会の改革は、個人の変革に始まると語っている。日本社会の腐敗のみならず、第一次世界大戦でキリスト教国家が相争う時代を見据えつつ、内村は、人の手によってはついに平和がもたらされないと実感する。戦後にウィルソンが唱えた国際連盟に対してもその限界を見ぬいていた。それゆえ、内村が再び巷に出て行き高らかに語った基督再臨運動も、目指したのは社会の改革よりは、寧ろ聖書の真理を闡明することだった。そもそも、自宅集会での聖書講解と『聖書之研究』へと活動を限る内村の転身は、救いの本義に立ち返る積極的な動機とともに、言葉を尽くしても変わらない日本や世界の現実への透徹した認識があったと、矢内原は述べている。それは、シリア・エフライム戦争の顛末を受けて、聖言を弟子達の内に封ぜよとの御声を聞いた預言者イザヤの境地に等しいと。
矢内原も、東大辞職後は自宅における聖書講義、また土曜学校において少数の弟子たちに信仰と学問の真理を伝えた。彼の雑誌『嘉信』には、やはりイザヤの顰みに倣う心持ちが吐露されている。内村の場合と同様、矢内原の活動は、撤退ではなかった。一九四〇年には海を越えて朝鮮に赴き平壌他で講演やロマ書講義を行っている。それは、日本植民地下にあって、支配する側にある人にも支配される側にある人にも、隔ての中垣を越えて等しく平和の福音を伝えようとしたものである。この旅を振り返って矢内原は、自らも「神の福音のために選び分たれたる者」として内村鑑三と同じ立場に立ったという自覚を語っている。内村の死後、戦時中に時代が厳しさを募らせる状況下で、内村の跡を継いだ弟子たちには、矢内原の他にも、浅見仙作氏ほか非戦平和の立場を貫いた者が並び立った。その人々と矢内原の働きは連帯するものであった。
敗戦後、矢内原は一転して、焦土と化して荒廃した国と国民に対して癒しを語り出す。『日本の傷を癒す者』(一九四七)にまとめられるその活動は、新しく平和と民主主義のもとに出発した日本国民のために、真理追求の基盤としてキリスト信仰が根付くよう力を尽くす営みだった。矢内原は、日本国憲法の発布にあたって、国民の間に真の悔改めが見られない状況を危惧したが、これを値無くして日本国民に与えられた神の憐れみと祝福の徴と見なした。憲法を文字通りに受けとめようとする彼の平和論にも内村の非戦論の継承を見て取ることができる。矢内原は、平和の時にのみ説かれる相対的平和論に対して、侵略を受ける危機に直面しても揺るがない絶対的平和論を主張する。それはたとえ一時国が滅び独立が喪われても、神の正義に立つ民族は、真実において世界から尊敬を受けるがゆえにその存立が失われることがない、という信仰に立つものであった。冷戦下の国際情勢と朝鮮戦争の勃発は、実際にその危機を告げるものだったが、矢内原は、絶対的平和を譲らぬためにいまいちど戦時下のような困難を身に受ける覚悟をも表明している。「私の愛する国をも平和の為に燔祭として神にささげる。ここまでつきつめられて、私は神を信じた。而して始めて私の胸の波は静まった」(「モリヤの山」一九五〇)。
日本社会の現実は矢内原が望んだ方向には動かなかった。晩年の彼にとって今日の事態、民主主義国家、平和国家日本の挫折はすでに明らかだった。日本国憲法の絶対的平和主義は、国家の滅亡を迎えてもなお揺るがぬ信念を指し示す。そのような絶対的平和主義は、キリストへの信仰、矢内原の言葉で換言すれば、国家の境を超えた宇宙的道義に立つ信念を抜きにして成り立ち得ぬものであったし、この国はそのような真理を受け入れなかったからである。そのような動向を見据えつつ、矢内原はなお、終末論的な希望としての平和と、この希望に立つ共同体の姿を指し示している。「聖書から見た日本の将来」(一九五一)など、こうした希望のもとで語られた講演、綴られたた文章がもつ今日的な意味を、逆にそこに見出すことができる。平和国家としての自信が揺らぎ、またその民主主義の脆弱さが明らかになった今の時代において、矢内原の言葉はそのかつての出発点をいまいちど見直させてくれる。
四、宗教改革とエクレシア
矢内原は、戦後の民主主義の進展についても、危惧の念を抱きつつ、これを彼なりに思想的に支えようとした。民主主義に立つ社会や共同体を矢内原がどう想い描いていたのか。これを考えるときに、彼の無教会論をもう一度振り返ってみる必要がある。このキリスト教的な、しかもおそらく一般の多くの人々に特殊と響く呼称が、なぜ、またどのように普遍的な意義を持つのか。
札幌独立教会の設立、また北越学館赴任の際の宣教師たちとの衝突は、内村鑑三に日本伝道に携わる教派の対立、また外国布教団体による金銭的支配の弊害を認識させた。また不敬事件の際には自ら所属教会の無い状況に陥る経験を味わった。これらが内村に、通う教会の無い者のための集い(エクレシア)としての「無教会」を自覚させた。それは元来、既存の教会を否定するものでも無視するものでもなく、むしろこれを外に補うものであった。一方で、「無教会」はキリストの福音に立つ共同体の本来の姿への回帰として、新たな「宗教改革」として受け止められていく。
第一次世界大戦勃発によりキリスト教国が相争う事態に、内村は自らが学んだ西欧近代キリスト教の行き詰まりを痛感する(「欧州の戦乱と基督教」一九一四年一〇月)。さらにアメリカ参戦に接した信仰の危機(「米国の参戦 平和主義者の大失望」一七一五年五月)を、彼は「再臨」を受け止め直すことによって克服するが、その後「再臨運動」に乗り出す前に、彼はルターに集中し、「宗教改革の精神」と題して語っている(一九一七年一〇月)。時は宗教改革二〇〇年の節目にあたっていたが、それは単なる外的な機縁ではなかった。一九一六年八月、信仰上の旧友ベルからSunday
School Timesを贈られ、その年末に再臨の真理を再認識してから、一九一八年の初頭以降、再臨の意義を聖書に照らして集中的に語り始めるまでに一年の時がある。
一九一七年の末に記された「ルーテルの遺せし害毒」、この「第弐宗教改革の必要」と副題が付された文章には、「愛における改革」が説かれるが、そこでは内村の思い描く真のエクレシアが見定められている。「キリストはルーテルの如くに政権に由りて改革を行ひ給はなかつた。キリストは政権の棄つる所となりて十字架に釘けられて人類を救ひ給ふた、…
キリストは亦聖書を重じ給ひしと雖も其文字に囚はれ給はなかつた、… 彼は喜んで異教徒を迎へ給ふた、曾て一回も信仰箇条の故を以て人を責め給はなかつた、斯くしてキリストとルーテルの間には雲泥の差があるのである
…」。ここには、聖書理解の違いゆえに相争う教会・教派の現実とともに、政治と結んで地上の勢力となり、ついには戦争への加担者となる教会の現実が見据えられている。教会の歴史は支配や権力への欲望を免れてはいない。「我等はルーテル以上の改革者たるべきである。而して神は斯かる改革を我等日本の基督信徒の中より要求し給ふのではあるまい乎」。専ら基督の再臨による平和を指し示してゆく内村の志向は、この「宗教改革論」の上に立つものといえる。矢内原における「無教会」の理解は、そのような内村の宗教改革の理想に接続するものである。
矢内原の「宗教改革論」もまた、日本の社会が戦争と直面する時期に纏められた。その符合は象徴的である。東大辞職後、ロマ書を携えて朝鮮に渡った時の講演に基づくこの論文は、驚くことにいきなり「全体主義」の小見出しで始まる。個人主義、自由主義、民主主義が非難される時代状況を受けて、称揚されるべき全体主義とは何かと問いを提起する。そこで矢内原は、個人とその自由が顧みられた上に、なお全体の幸福を各人が追求してゆく社会こそ真の全体主義であると述べる。これはもう、全体主義を換骨奪胎して、かつて論文「国家の理想」に説いた宇宙的道義に立つ国家像、社会像を指し示す。そしてそのような理想を追求する国家や社会の各層に個々人が浸透して内側から支えていくとき、その命の源として、キリスト者の共同体(エクレシア)が見定められている。無教会の理想がそこにある。それは、教会を世俗に対する橋頭堡のように固守するのではなく、宗教と世俗の境を越えて命を与え、平和を担い往くものとして福音の真理を語り出すがゆえに、既成の宗教や社会、また教派の境を越える現代の宗教改革を指し示しうるとされる。
西欧近代は、思想や信条の自由を個人の権利として確立したが、一方で信仰や思想の問題を、国家や社会の公的な問題には与らぬものとして、個人の私的領域に閉じ込める傾向が生じた。矢内原はその活動の初期から、心の中に享受するだけの信仰は愛を欠いた自己満足であり、本来の命を失うとし、社会の傷んだところに赴き、苦をともにする信仰者の歩みを説いた。それはまさしく彼の学問の営みであったし、義を欠いた国家に対する批判も、身近な学生たちへの薫陶もその源に発していた。矢内原に惹かれた学生たちは、信仰告白の有無を問わず、等しくそのような無教会の徒として世に出て行った。かつて内村は、青年たちに「後世への最大遺物」と題して語った際に、誰にでも遺しうるものとして「勇ましく高尚な生涯」を指し示した。そこに語り出された広い意味での無教会の教えを、矢内原も受け継いだといえよう。
矢内原は内村とともに、地上の統治形態、たとえば君主政治、民主政治、そのいずれにも至上の地位を与えては居ない。それでも矢内原は、戦後において民主主義に、その衆愚政治に陥りがちな一面を心得た上で、なおかつ将来の日本が辿るべき道を見定めた。そこで彼は、民主主義の根拠として自由、平等と並んで第三にヒューマニズムを挙げている。彼の言うヒューマニズムとは、「世の中の弱者という弱者の一人一人に温かい心をよせて、かれも人間であると、わが胸に抱きかかえるような気持」(「日本の民主化は可能であるか」一九六〇)であり、これを培うものとしてキリストの信仰を指し示した。矢内原の「宗教改革論」は戦後も一貫して貫かれている。多数者の利益追求の手段と化した感のある現代の民主主義政治に対するとき、矢内原の言葉は我々が自らの歩みを深く考えさせられる契機となる。
無教会は、キリスト教史に繰り返し登場する諸教派の一つではないし、そのような狭隘に陥ってはならない。これは、内村も矢内原も等しく志したことであった。かつて鎌倉仏教において日本独自の仏教の礎が据えられた。これに相当する日本独自のキリスト教受容の姿を彼らは無教会に見定めていた。しかしそれは、かつて戦争推進期に唱えられた国粋的な「日本的基督教」とはむしろ正反対の志向である。矢内原は「日本的基督教の樹立する為めには、日本的基督教に特殊なる苦難がなければならない」と述べ、日本的迫害は「利欲虚偽の国家思想」と闘う時にその真価が明らかになると述べた(「悲哀の人」)。それは、内村鑑三の闘いであったし、矢内原忠雄は、これこそ内村から受け継ぐべきものと述べ、みずからその戦いを闘った。
五、近代の克服?
このような内村鑑三、矢内原忠雄の志向をどのように受け継いだらよいか。今年は、明治百五十年という言葉をよく耳にする。それにちなんだ帯文を目にして、新保祐司氏の著した『明治の光 内村鑑三』(二〇一八年一月刊)という本を繙いた。その「序」にはこう記されている。「近代の達成としての明治百年のときとは違って、近代の終焉を迎えた明治百五十年のときには、明治という時代の文明開化に対する根源的な批判者である内村鑑三こそが、〈代表的〉〈明治の精神〉として立ち現れてくる」と。さらに本文は、「明治初年の精神の源泉ともいうべきものは、〈日本的ピューリタニズム〉〈志士的ピューリタニズム〉であった」と述べて、吉田松陰をその典型として挙げ、また内村鑑三「の基督教は、よく武士的基督教と呼ばれたが、それは〈志士的ピューリタニズム〉に他ならない」と続く。その大きさゆえに様々な接近を許す内村鑑三だが、彼自身の真意を外した視点からは、こんな解釈も引き出されるのかと思った。内村鑑三が批判した明治国家と日本精神の存続をむしろ図る新たな試み――そんな印象が残った。
矢内原忠雄は、未完に終わった「内村鑑三伝」(一九四七年)の冒頭に、内村の日記(一九二四年一月五日)を引用している。「新聞紙に清浦内閣の役者の顔触を見て驚いた。日本に於ける人物払底も終に此に至つた事を思ふて実に悲しかつた。是では日本の前途が甚だ危ぶまれる。然し播いた種が生えたのである。止むを得ない。日本を此に至らしめし責任は所謂維新の大政治家達にある。伊藤、山県、井上、松方、大隈など称せらるゝ人達が、歴史の裁判に訴へられて、重刑を宣告せらるゝ時が遠からず来るであらう。…」
これに対し矢内原自身はこう続けている。「之は市ヶ谷に於ける戦犯の裁判よりも更に大なる裁判である。日本を今日の敗戦に導いた者は、所謂明治維新の元勲たちである。明治維新は失敗だった、と言ふのである。何を以て然るか。それは之らの大政治家たちが、国家を高潔なる品性の上に建てなかつたからである。高潔なる品性は、高潔なる宗教によつて養われる。明治維新の失敗は、国家を高潔なる宗教の上に建てなかつた点にあるのである。…/ …然るに日本の明治政府は国を開いて近代化するに当り、民主主義精神の養育者たる基督教をとりいれずして、ただこの精神の結実たる制度と学術とだけを輸入した。… これは急いだのではなく、誤つたのである。而も偶然に誤つたのではなく、故意に誤つたのである」と。
たしかに、日本には仏教があり儒教があり、また武士道があつて、決して無文明の野蛮国ではない、と内村鑑三は述べた。その内村も、旧来の思想だけでは、西洋文明を移植すべき土壌として足りなく、西洋文明の基となった精神の輸入を不可欠と主張した。これを拒んだために、西洋の学問技術を入れても、学問的精神を養えず、立憲政治を採用しても、その運用に必須の民主主義精神を養成できず、そのために政治経済が腐敗したと、矢内原は言う。日本人が個人の自由と責任を体得せず、人格の観念と高潔な品性を養えず、そのため無責任な利己心と、低い唯物的道徳生活と、形式的なる愛国論のみが蔓延して、正義に立ち、真理の為めに戦う道徳的勇気をもてなかったと、矢内原は言葉を重ねる。この国民的な欠陥が、日本を敗戦に導いた根本的原因として、敗戦が暴露した現実であると結んでいる。
矢内原の言葉は(その師内村鑑三とともに)、明治維新以降の日本国家のキリスト教に対する姿勢を批判するが、これを単なる布教の言葉と取るのは早計である。内村も矢内原も、近代を単なる文明開化として捉えてはいない。内村鑑三が札幌で学んだ「理学」(自然科学)は、近代自然科学の淵源の精神を残していた。その宇宙万有を統べる存在(神)への畏敬と讃美という真理追究の動機は、一七,八世紀の「聖俗革命」(村上陽一郎著『近代科学と聖俗革命』一九七六)を経て、現代のように知識欲だけを専らの動機とするものに変質する。また内村鑑三の労働と富に関する考えは、彼がニューイングランド滞在時に交わった、初期資本主義の経済倫理に立つ人々を範としているが、それは、専ら欲(傍点)望をほしいままに追求する賤民(パーリア)資本主義(M・ヴェーバー)に転じる前の精神に立つものであった。「桶職」と題された内村鑑三の詩に示されるように、確立された個の自覚と勤勉から育まれる、自由な良心と慎ましい豊かさこそが国を根底から支える。それが内村の(また矢内原の)志向した建国の精神であった。「和魂洋才」を唱えた明治国家と日本精神は、藩閥政府の軍国主義と殖産興業という欲(傍点)の論理によって、またこれを隠しつつ、国民を統合するための後盾とした国家神道形成によって、この人々を誘導、圧迫していった。日露戦争直後の内村の詩「寡婦の除夜」はこれを痛烈に批判している。「和魂」などと唱えても、その実は、すでに欲望の追求に転じていた西欧近代の単なる模倣だったのではないか。
たしかに内村鑑三は「武士的基督教」と語った。しかし、「虚偽」を嫌う武士の「義」と「礼節」を重んじたのであって、それで事足れりとしはしていない。その上にキリストの福音が接ぎ木されなくてはならないと説いたのだった。彼の唱えた「二つのJ」において、イエスと日本、いずれが上位にあるかは明らかである。内村鑑三は、「和魂」であれ「洋才」であれ、日本の近代の展開を欲望の跳梁として見据えていた。これを克服すべき福音の担い手たるべき西欧由来の教会が、同じく(教勢伸張という)欲望の論理に回帰していることを批判した。今日流行の言葉としての「近代の終焉」を語る前に、そもそも、その開始の状況にすら達していないこの国の現状を顧みれば、むしろ近代精神の淵源を学び直さなくてはならないのではないか。それが矢内原忠雄の言わんとするところである。
一九二六年の末に内村鑑三は語っている。「君、日本はあと五十年で亡びるよ、こんな無責任な国はだめだ」(石原兵永著『身近に接した内村鑑三 下』)。また矢内原忠雄は、未完の「内村鑑三伝」の冒頭にこう述べている。「敗戦後の日本は、明治維新の初めにかえつてすべてを学び直す必要がある。敗戦は明治維新以来の日本建設史の精算である。日本の領土が明治維新の初の頃の範囲にかへつたのを機会に、私どもは眼を歴史の分岐点にかへし、そこから敗戦にまで至つた八十年の日本の歩みを見直して、何処に誤謬があり、何処に欠陥があつたかを確かめ、今度こそは我が日本を堅固な基礎工事の上に、新しい国として復興しなければならないのである。」その言葉を受けて始まった日本の戦後は、どのようであったか。
今日の社会を動かしている動機を見つめる時、「利欲虚偽」の追求という人間と社会のあり方はかわらない。しかし、社会をうっすらと不安が覆う一方で、安穏の装いと富や豊かさを頌える空気のゆえに、戦前のような信仰者の戦いの現場が見えにくくなっていることに、あるいは現代の困難があるのかもしれない。「利欲」の追求と「虚偽」への居直りは、いまや隠された動機ではなく、社会を正面から動かす言葉となっている。西欧自体が、人権や良心の自由など、獲得してきた近代の諸価値観をご破算にするような事態が続いている。そのような状況を見すえるとき、晩年の矢内原が指し示していることをもう一度顧みてみたいと思う。内村鑑三は、社会を新たにするような徹底的な改革は、何よりもまず一個人の内に始まると述べ、聖書を指し示した。これは内村自身の実験であったし、矢内原忠雄の受け継いだことであった。私たちが立ち返るべき場、指し示すべき場も、まさにそこにあるであろう。これを確かめるために、今一度二人の出会いの出来事に立ち返ってみたい。
六、真理の継承
本稿の初めに、内村の「余の最初の聖書」と題した話を聞いた、矢内原の感動を紹介した。その結びに矢内原は、自らのために三つのことを挙げている。いま一度引くならば、「唯僕の最も切に感じた処は、/聖書を以て一生を押しすすむこと、/聖書を以て朝鮮人の中に入ること、/神の僕として感謝の涙を流すに至りたきこと。」矢内原忠雄は、聖書を命として歩む内村鑑三の姿を受けとめ、これを自らの歩みにも願っている。その言葉どおり、矢内原の生涯は、聖書をもって虐げられた人々とともに歩むものとなった。
この記述で若き矢内原の心を捉えた第三の点に、最後に注目したい。「今日の御声は確かに涙声であられた、神がその愛を示し給へるに対する嬉し涙であられた。『余が最初の聖書』を手に入れられてより三十八年間の生涯を顧みての感謝の御涙であられた、神の僕のよろこばしき涙であられた。」この記述は、この時よりさらに一四年を経て、内村鑑三の晩年を記す矢内原の報告と通い合う。そこで、矢内原は「先生の祈り」に今一度打たれ、その姿を大切に書き残した(「先生の涙」一九三三)。さらに二八年を経て、矢内原自身の最後の内村鑑三記念講演となった「罪の問題」(一九六一)にも、内村の信仰の核心を、無力ゆえにただ神に泣き叫ぶ「赤子の信仰」と告げて、矢内原の共感を語り出している。「人生の激しい七十年の闘いを戦いぬいたまことの預言者、まことの愛国者、まことの福音の人として働き抜いた内村鑑三が、最後に神様に対して、ただ祈るだけ、泣くより他に言葉なき赤子としてこの世をお去りになった。これが彼の力の秘密でありました。彼の愛の秘密であり、そして彼がわれわれに残した最大の教訓であると、わたしは信ずるのであります。」
こう述べた矢内原の終焉もまた同じ姿であったことが、『嘉信』終刊号に妻恵子の筆で伝えられている。若い日の矢内原が、生涯を貫こうと願ったこの生活態度、すなわち聖書を生涯の伴侶とし、朝鮮(や他の日本植民地)の人々につくし、生涯の終りまで感謝の涙をもって歩むことは、「十字架を仰ぎ見る」ことに支えられていた。これこそがまさしく、矢内原忠雄が内村鑑三から真理として受けついだ命の真実であった。矢内原が内村から受け継いだ総ての底流には何よりもこの贖罪信仰があった。内村鑑三との出会い以来、「十字架を仰ぎ見る」信仰が矢内原忠雄にとっても、その命を根幹から支える力となった。私たちもまた、内村鑑三、矢内原忠雄の「虚偽利欲に対する闘い」を受け継ぐとともに、彼らの力の源に立ち返ってゆきたい。
――内村鑑三記念キリスト教講演会(二〇一八年三月二五日)講演
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