婚姻 に関する

ある 巫女 の

試論

我、霊として汝のもとに来るとも

我を恐るることなかれ

1775

初めの金枝折らるるとも、別の枝欠くことなかるべし。等しく金より成れる一枝萌えいずるなり。されば、目にて高きを仰ぎ窺え。汝そを見いだせる時、すべからくそを手にて捉えよ。
(ヴィルギリウス アエーネイス第4巻)
 
 
 至福の夫婦たちよ、調和の魔力に対し開かれたる耳を閉ざすことなく、まことの預言をなす一人の巫女の声に聴かれよ。我が授けるところの教えは、愛のごとく不可思議に満ち、婚姻のごとく秘密に満てるもの。

 汝らの優しき信頼の眼(まなこ)に、小さく思慮深きかの愛の神を我は見る。彼はその手の業になれる名品につきて、独り心の内に企む。その品とは、彼が構想と獲得と盲滅法の冒険との全ての終わりに心に抱きたるものにして、その目指したるところはすなわち、「我らいざ人間を造らん、我らに等しき姿を」−

 かの「神の思いつき」の遂行のためには、予めつねに、些細なるものごと− しかしそれは愛する者たちの目には些細にあらず− のひとつの世界を要す。この思いつきは、この類の原初の試みに等しく、さほど人の目には叶わぬものに見ゆる。

 人間とは、その種(=性)の「創造者、自己保持者また絶えざる増産者」たるその定めにしたがい、まことにこの地における一人の神。なるほど、この「神的なるもの」は、目に見える営みの全てに具体化され、初めに語りいだされた祝福の一つの展開をなす。されど、我らに並ぶ被造物の一つとして、熟慮を経た自発的決議のため、あるいはこれを目指す「契約」また「社会的平等」のために造られしものは無い。また、人間ほどに、より大いなる「鍛錬」を為し得るもの、またこれを要するものは、一つとして無い。

 我らが、かの神との等しさを、盗みとしてあるいは分捕りものとして恥ずるのは、いずれの故か。この恥は、我らの本性(=自然)の密かな汚点にあらずや。それはまた同時に、これを造りし栄光の創造主、唯一頌め讃えられるべき叡知の主の黙せる非難ではないのか。

 それは、「子供、獣」また犬儒学派の例に見て取れるごとく、生得の普遍的本能にあらずして、相続の道徳である。そして、道徳と慣習とは全て、記録さるべき出来事の保存と因襲的志操の存続のため、意味深き徴また標識を持ち込で来た。

 かくして婚姻とは、沈着なる決議によりて立てられたる盟約にして、理性と誠実とに基づく。この故に、「今日の困苦のため」かかる「決議」また「契約」を毫も顧みぬことこそ、賢くまっとうなこととされる。かの法典が、高さ六〇エレ幅六エレの金色の巨漢をなす国家においては、その労の報われること最も少ない。そして、全ての法律の制裁は、その内になんら偽りの無い昔気質の実直な魂にとりて、七倍も熱い灼熱の融解炉である。

 婚姻とは、社会全体の貴重な根底また礎石なるが故に、我らの世紀の人間愛の霊は、婚姻法において最も強く啓示される。*1されど、立法者の側の憐れみが、人間の心の頑なさにおもねり、公然たる罪や悪徳に特権を授けるものであるからには、世の審き主の側からの至高の義とは、その「尊厳」を「汚すもの」をして、自然に背けるところの己が身の濫用に委ねしめることとなる。−

 もちろん、人類(=人間的性)とその市民社会にとりて、婚姻に対するかの「聖さ」の「理想」の追求にまして為になるものは無いであろう。モーセ律法と預言者との大いなる成就者は、この聖さを再建した。かつ、それを天また彼の新地の「国法」として、かの至福の山の頂にて説きあかした。「情欲をもて女を見る者、− また己が女と別れる者 − また出された女を娶る者は、姦淫を犯す者なり。」すなわちモーセはかねて、「かかる者は石打つべしと命じた」。また彼の律法は、我らの時代の道徳その空しき説教者の幻影のごとく解消することはありえず、堅き預言の言葉として成就されねばならぬ。−

 「その奥義は偉大である」− 神の似姿にして誉れ、そは男にして、またその誉れは女である。すなわち、男の神に関わるがごとく、女は男に関わるのであり、この「3者」の「一つ」なるところ、「女は子を産むことによりて至福を得、男は体の救い主となる。」

 それゆえ、すべて「ヒュメーン(=結婚の女神ヒュメナイオス・処女膜)の密儀」は、暗き夢であり、かの「深き眠り」に関わる。この眠りの内にて、初めの男娘(=おとめ)は世に来たり、全て生けるものの母を雄弁に物語る模範(=予型)となった。−−

 されど、我が試みは、かの北ブリトンの輩がとりついて離れぬ数字をもて我が性につきて記したる試みにも、また彼の祖国の教養・才知豊かな変わり者が我が対象につきて記したる試みにも、張り合うものにあらず。我はまた、ヴェスタの巫女にあらず、老婆バウボにもあらず、グレクール流儀によらずして、バルビーの旗標にもよらぬ。−

 汝らの大いなる母の乳房と腰の内なる全ての多産とは何か、彼女の果実と花粉とを享楽すべく生まれついたる呪われし者よ。汝らの嗜好の虚ろな喜び、また汝らの才知の甲高き欲情の擽(くすぐ)りとは何か。覆われた悲しみまた絶望なり。また全て汝らの「請い求め」は、ツェレスとその娘の賢き寓話の物語るごとく、富める黒き黄泉の神の餌食なり。

 至福の夫婦らよ、あるいは汝ら、我が身の出来事の神秘的小メルヘンをも等しく、好みて聴きたもうや。いかに我、巫女の「密かな知恵」を「鳩の素直さと蛇のたくらみを備えたる」「幾千人の内なる一人の者」におかげとして被るかを。−

 彼の最初の手管とは、我が目に己れを厭わしく示すことなりき。これを彼は見事に為したるが故に、彼とその性の全体は、我にとりて卑しくまたおぞましき様に現れぬ。されど、この誘惑者の負担故にこざかしき者となりたる、我が感謝を知らぬ虚栄と思い上がれるあざ笑いとが、その時、いかに処罰されたることか。すなわちその時、彼の率直さの鏡は、一つの反照を我が胸に投げ返しぬ。そして我は、その照り返しの内に我が性の半球を、生まれたるままの姿で知り初めぬ。かかる自己認識の灼熱によりて、麗しき形容はことごとく炭のごとく黒くなりて、闇夜の海綿の「色」さながらにかき消えぬ。− 理性ある「獣」が、生き物全体の類比に従いて、その毛皮の「粗き側」を法の定めどおり「外側に担う」ことを認めさせられ、今や我、うっとりと恋焦がれるご立派な求愛者をば狼、忍び寄る敵対者、また霊の怪物と見なしぬ。彼らは、舌先に乳と蜜とを香らすとも、心の倉には毒と苦みを貯える者なり。

 我が思考法全体のかかる破局は、「一つの共感の基礎」となりぬ。これは、速やかにその対象との一致へと高まりぬ。男の魂の強さはことごとく、我が魂の内へと移りゆく様に見ゆる一方、我が「激情」の「反作用」によりて彼の魂は、他ならぬ子供じみた女の欲情においてこそ深く息づく様に見えたり。−

 死せる種なしの裕福さよ。聖者づらをした我らが世紀のパリサイの徒よ。汝の道徳的・市民的先入見、また汝が功績の高き「嗜好」あるいはがらくたは、高く天空の波を支配するかの「レビヤタン」の「キャビア」に他ならす。− そして汝ら麗しき精神の輩よ、汝らの生娘の恥じらいはフランス好みの化粧、白墨と虫卵の混ぜものなるが、天与の生を得た健やかな血肉に備われる生来の高貴な紅みにはあらざるなり。−

 「無垢」の「生け贄」を欠いて、「純潔」の「宝」またその「聖所」はついに知られえず。そしてかかる天上の徳への入口に歩み入ること叶わぬなり。−

 まどろみの香煙の直中に、我はかの肋(あばら)骨を見ぬ。− かくして感激のあまり(=霊を得て)満ち足れる愛情に促されかく叫びぬ、「これぞ、我が骨の骨、我が肉の肉。」−

 一つの被造物(性器)のその起源に結びつくがごとく、彼は、肉の救い主としてそのかねて出で来たるところに入り行きぬ。そして、人類(=人間の性)の太古の「反故」をなおも成就すべく、良きみ業を為せる真実の創造主さながら、彼は、肉をもてその所の隙間を塞ぎぬ。−

 欠伸しつつ夢見つつある夫婦らよ、まこと、一年後のこの日に我は約束する、祝辞の「後書き」によりて我が性の目印を隠すこと無く、我がメルヘンを終えんことを。おそらく汝らは「初めから」言い当てよう。我が試みの全ては、我が隣の草原に淀める溝より釣り上げられたる一皿の「鬼火料理」に他ならぬことを。

 「夕の星」さながらに踊る「鬼火を釣って見せ物に料理したるもの」が「ガリマフェー(魚の残り料理)」のごとく享受され、消化されうるものならば、我が詩神(ムーサイ)は、その「メドゥーサの像」を「ミネルヴァ」の胸に捧げた巫女にはあらざるなり。

 
−− かの賢き伴侶の女、彼を鼓舞することなかりせば、/優しき者(=本性)らは体を欠いて舞い飛び、その姿の像に紛れてなお姿無くありしところなり。
(ヴィリギリウス 『アエーネイス』第4巻)