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信ずるこころ
歩みの途上で
★両手で受ける
ドイツ中部の町アイゼナハ。テューリンゲンの森の北に位置するこの町を訪
れたのは、秋の深まりゆく頃だった。
ヴァルトブルクの城は少し離れた山の頂にそびえる。だが、城塞は霧雨に隠
されてなかなか姿を現さない。ようやく、城門を色濃く染める蔦の紅葉が目に映
る。
歌合戦の場として知られる大広間は、さすがに華美な彩りが目を引く。だが
、私の心は別の一室へと急いだ。
すりへった石の床や壁面。調度といえば粗末な机ひとつ。その上には一冊の
聖書が置かれている。宗教改革期、ルターはここで聖書の翻訳にいそしんだとい
ういう。その質素な眺めを前にして、私の感慨は深かった。
「人は行いによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされる。」福音の
再発見とも呼ぶべきこの喜びの音信。ルターはそれをここで、素朴で力強い民衆
の言葉に移そうとした。彼がこの部屋の片隅で本来ささやかに念じつづけた祈り
が、宗教改革の運動となって歴史を動かすこととなった。
もちろん、この改革は必ずしもつねに相応しく結実したわけではない。神に
義しいとされる、その「信仰」とは何か。そのような問いをめぐる論争は、後に
、例えば三〇年にもおよぶ宗教戦争を引き起こしさえした。
誤解は今日にも及んでいる。ともすれば我々は、「正しい信仰」という器を
せっせと磨き上げようとする。そのような信心こそが神の恵みを容れるのに相応
しいと。
だが、本来ルターの再発見したことは、もう磨きあげる余地のない器、無信
のどん底に呻く罪人に注がれる神の恵みの贈与ではなかったか。
「我々は乞食だ。それは本当だ。」ルターの末期の言葉とされるこの言葉。
自分を誇るところの何もない、ただ受けるだけの存在に、あろう事か、神はこん
なにも恵みを施されるとは。そのような喜びをこの辞世は伝える。
小さな部屋の前に想いつつ佇んでいると、無頼の俳人、尾崎放哉の句がふと
思い出された。「入れものが無い両手で受ける」。全く別な風土で、自堕落を負
い目として担いつつ、その時彼もまた、彼なりに大切な真実を見ていた。
托鉢の器もなく、さしだされたその両の手は祈りの形であると。
★散策の小径
凍てつくような冬の日でも、少し陽が射せば、老人夫婦が並んで雪道を歩い
ている。ドイツでの学生時代、そんな光景をよく目にした。散歩が人々の生活に
確かな位置を占めている。その印象は新鮮だった。
もともと歩くことは好きだった。早速、私は郷に従った。貧しい学生にとっ
て、それはまたいつでもできる唯一の楽しみであった。
小高い丘を登ると、さらに次の丘が目に入る。どこまで行ってもなだらかな
稜線が空を限っている。平野の端で突然山がそびえたつ日本の風景とはかなり違
う。下草が少なく、道の無いような所でも歩きやすい。
トルストイの作品に「人にはどれだけの土地がいるか」という短編がある。
一人の男がある村の噂を耳にする。そこでは、日の出から日没まで、歩いて囲ん
だ範囲の土地を自分のものにできる。それを聞いて、長年の夢が叶うと、喜んで
男は村に出かけていく。
記憶の隅にあったこの話。ある朝思い立って、私も実際に歩いてみた。気楽
に、パンのかたまり一つをポケットに詰めこんで。
小さな学生町。宿舎の裏からすぐに森が始まっている。西から北へ。昼をか
なりめぐった頃やっとラーン川の上流に出た。流れに沿って下ればなんとか帰れ
る。森の間にのぞく村々を目あてに、帰り着いたときにはすでに闇が落ちていた
。ベットに倒れ込むようにして眠る。夢に嵐を聞いたような気がした。
八月の終り。そろそろ秋の気配を感じる頃だった。休暇中、友人は皆郷里に
帰り、週の大半を独り図書館に過ごす日々。寂しさの中に、そのような散策は私
にとって息抜き以上のものだった。街や森の中を、日々私はひたすらに歩いてい
た。勉学や人生の意味。将来の不安。様々な問いを心に響かせながら。
短編の結尾で、男は日没ぎりぎりに帰り着く。が、そこで息絶えてしまう。男
の埋葬に要した土地はその背丈分だったと、作家は記す。欲は人を滅ぼすという
教訓? いや違う。道の途上で私は、人生に弄ばれつつ男が必死にたどる歩みを
実感していた。そんな人間をいとおしむ作家の想いに共感しつつ。