天使論2
詩誌「ERA 創刊号」 2003. 10
黒海に注ぐドナウ川。旧い大陸を遙か南東へと流れ降っていく。だが黒き森の水源に発して暫くは、むしろ北東を目指すかと思われる。若々しい流れが南に転ずるあたり、その北端に位置する古都レーゲンスブルク。迅いドナウの流れに架かる欧州最古の石橋に佇むと、街の全容が眺められる。立ち並ぶ尖塔のなかでも、目を引くのは聖堂。擁する少年合唱団「聖堂の雀たち」は、やはり最古と称され、幾度か来日したこともある。
石橋のはずれが街の門。かつての塩倉庫の建物。そこから聖堂は目と鼻の先。塔の正面を迂回して、身廊わきの扉をくぐる。中は真っ暗。ひんやりとした大きな闇の底を祭壇の方へと歩む。天窓のようなステンドグラスから、かろうじて床に届く光。漸く目が慣れてくる。会衆席の前辺りから、祭壇を向いて右の方。見上げれば、やはりそこにあった。宙に浮かぶ天使の像。微笑んでいる。去りがたかった前回の想いが還る。斑鳩の弥勒菩薩のような微笑みに魅せられたから? いや、一瞬私はたじろいだのだ。暗がりに阿修羅の表情が重なったように思われ、戦慄のような恐れに襲われて。
リルケが「ドゥイノの悲歌」を贈った侯爵夫人。その夫、トゥルン・ウント・タクシス家の居城がこの町にある。だが、そんな連想はすぐには思い浮かばなかった。出会いの経験に心を捉えられ、聖堂を出て暫く道を歩んでいると、にわかに悲歌の一節が思い出された。「なぜなら美は/怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、/嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを/とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい」(第一悲歌 手塚富雄訳)。恐ろしい天使。この言葉から、第二悲歌がさらに歌い継がれる。人間存在を天使に引き比べる。その対置は悲歌の嘆きの源。天使への呼びかけは繰り返され、詩の主調音となる。その衝撃の多くが、この天使像に由来するのは明らかだ。
天使は愛らしい存在との思いこみ。それは、「聖堂の雀たち」の変声期前のソプラノを「天使の歌声」に準えて迎え、様々なエンゼルを商標にする東洋の一国のことだけではない。天使を女性や子供の姿で描く、その歴史は古くルネサンスに遡る。ロマン派の画家ルンゲの代表作「朝」(ハンブルク美術館蔵)などの子供の姿は、愛らしい天使像の典型。人間らしい天使、それは、信仰とその歴史の要請であった。ドイツ国民の守護天使ミカエルが、ドイツ的愚朴の代名詞となるまでに。そのようにいわば玩具化した天使像に慣れた心に、恐ろしい天使のイメージはむしろ新鮮な驚愕であったろう。
だが、強大な力の行使者としての天使こそは、その本来の姿である。ヤボクの渡しで、ヤコブと戦った天使。レンブラントの有名な絵がベルリンの美術館にある。その主題はゴッホの画面にも登場する。また、厳粛な姿で現れて処女マリアに受胎を告知するガブリエル。画家たちは競ってその姿を描いた。その意匠によって受胎告知の天使の位置づけは微妙に異なっている。さらに、新約掉尾の黙示録ほど天使に満ちている書物はない。封印を解く喇叭を吹き鳴らす天使、また人間に出来事の解釈を説きあかす天使。悪の勢力と闘うミカエルの勇猛な姿は、デューラーの版画やミルトンの叙事詩に描かれる。だが、そのように力強い天使像も人の形に準えられる限り、やはり神が自らの力を抑制して、人に同伴する姿でもある。旧約外典トビト書のラファエルがその典型。人間に親しい天使の素地が、そこにないわけではない。
直面するならば滅ぼされかねない神の熾烈な栄光。その担い手として登場する天使は、もはや人の姿をしていない。預言者イザヤの召命の場面(六章)。神殿に満ちる神の栄光を告げるセラフィム。三度「聖[カードーシュ]」を叫ぶ声は、敷居の基を揺るがせる。三対六翼の形姿。その一人は祭壇の炭火を預言者の口に運ぶ。その灼熱に罪を贖われ、イザヤは神の言葉を託された者となる。エゼキエル書の召命記事は、神顕現をより仔細に描写する(一章)。等しく六翼の天使ケルビムは、「生きもの」とのみ告げられ、その姿はむしろ神の乗り物のよう。人面のみならず獣面をも備えた天使は、バビロニアの煉瓦レリーフに見られる翼を持つ半獣神に通じる。またギリシャ世界、サモトラケのニケ像や、多手多眼の仏教像を思い描いてもいい。それは十戒の禁ずる、神の偶像化とは違う。預言者はむしろ、個別宗教の伝統的顕現の場(例えばエルサレム神殿)とその形象に拘束されない、神の絶対的栄光に直面しているのだから。
新約の天使は、人間の崇高表象の多様を超える至高の神の荘厳を示す一方、その超越を自ら捨て去る神の人間への謙卑をも伝える。イエスの誕生を告げ、復活を説く天使がそれ。だが、本来イエスの到来そのものが、峻厳な審きの神の本願、人間を救おうとする神の愛を具現する。時代が降って、イエスが崇高視され民衆と疎遠になると、マリアや聖人、また天使の崇拝がその位置を占めた。至高者の愛の担い手として。人間らしい天使は、その延長上に要請され、社会の世俗化に伴い広まった。
崇高の光源の失われた近現代。焦点を欠いた天使像はより人間性を帯びていく。例えば映画「ベルリン・天使の歌」。堕天使の恐怖とは無縁の世界がそこにある。垂直軸が曖昧なところ、天使はもはや恐ろしくはない。それはこの作品の意匠であろう。問題はむしろ、崇高世界の消失には、畏れを喪失した言葉が呼応すること。技術と文明は、言葉への畏れを欠いた時代を招来した。それこそリルケが直視した問題。ベンヤミンが、遺作「歴史の概念について」で、クレーの「新しい天使」の像に託して示唆した進歩の問題がそこに重なる。リルケの天使の構想とは、伝統の神を語らずして、なお崇高の存立と尊厳の位置を再建することだった。
再びドナウ河畔に立つ。この河の性は女だが、神話の女たちのように荒々しく、その猛威はことあるごとに溢れて街を呑み、街路を幾度も浸してきた。河の上流は靄に煙っている。ハーマンの言葉や、河の詩人ヘルダリンの詩句が思い出された。預言者の使命とは、天使の言葉を人間の言葉に伝える翻訳者。他ならぬ詩人の使命もそこにあると。言葉に真の畏れを回復する者として。
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