『ロンドン著述集』から
(抄訳)
1.「聖書の解釈について」
神、ひとりの著作家! −− この書の霊感は、父の創造と子の受肉とに等しく、神の大いなる遜りであり、自身を低くなしたもうみ業である。それゆえに、心からの謙虚こそは、聖書を読み進むことそのもののうちに含まれている唯一の心構えであり、そのために、最も欠くことのできぬ備えなのである。
創造の主は否まれ、救い主は十字架にかけられ、知恵のみ霊は汚された。そのみ霊の言葉は、創造と並ぶ偉大なみ業であり、人間の救済と並ぶ偉大な奥義である。それどころか、この言葉こそは創造のみ業と救済の奥義に対する鍵をなしている。それゆえ、神をなみすることの頂点、また不信仰の最も大いなる魔術とは、啓示の内なる神を知ろうとはしない盲目であり、この恵みの手段を侮る冒涜をいうのである。
動物は、イソップやフェードルスやラ・フォンテーヌという人々の寓話を読むことができない。そのように、(たとえ、かりに読めたとしても)動物は、人間が神の書について批判や哲学的思惟をかさねてきたのとの違って、それらの物語の意味やその正当性について、動物としての判断を下しえないであろう。
われわれは皆、エレミヤの投げ込まれていた泥の獄屋の中にいる。古いぼろきれは、彼を引き出す綱の役を果たした。彼はその救助をこのぼろ布に負っている。ぼろ布の見栄えではなく、ぼろ布が彼になした働きと、彼がその働きを役立てたことこそが、彼を命の危険より救いだしたのであった。エレミヤ書三八章十一−一三節。
我々の救い主は、自らの唾と地の塵から作った泥を用いて目薬となし、盲目に生まれついた者の目を開いた。ヨハネ福音書九章六節。
また、畏れのおののきなしに、誰が、ガテの王宮でダビデの味わった出来事を読むことができようか。彼はその身ぶりを偽り、狂者の振る舞いをなし、門の扉を離れず、自らの髭をよだれで汚した。アキの判断の内に、我々の時代の不信仰な軽口家やソフィストの思考法が反響しているのを聞き逃す者はいない。サムエル記上二一章一三−一五節。
いかなる人間が、パウロのように、あえて神の愚か、神の弱さについて語ろうと企てるだろうか。コリント人への第一の手紙一章二五節。神の深みをも探りたもうみ霊ならずして、いかなる者もこの預言を我々に開示することはできなかったであろう。この預言の成就は、他ならぬ我々の時代に最もよくあてはまる。すなわち、賢者、権力者、貴人といえども、天のみ国に召し出される者の数は多くはないのである。そして、大いなるみ神がその知恵と力を啓示しようと欲したもうその仕方は、まさしく賢者たちを辱めんがために、この世の愚かなものを選びたもうことによるのである。神は、強者らを辱めんがために、この世の弱き者を選びたもう。いや、その現存を誇りうる存在者を無に帰すべく、無なる者を選びたもうのだ。
2.「ひとりのキリスト者の聖書考察」
Werke, hrsg. von J. Nadler, Bd.1 から頁数、行数を示す。
8,7
理性に媚びて、神の言から眼をそらす哲学者は、旧約に固執するために、いっそう頑なに新約を退けるユダヤ人の立場に等しい。彼らにおいて、諸々の洞察の確率と成就に役立つはずのことが眼にはつまづきとして愚かとして映るということが成就した。
8,20
この聖なる書の偉大な著者が意図するのは、己が救い主に対する信仰によって至福へ至らせるという仕方で、真の読者を作ることである。これらの書がその名のもとに保たれてきた聖なる人々は、聖霊によって駆りたてられた。その書をまとめる際に、聖霊が彼らに与えられた。こうして、この書は我々を教え、罰し、また義の内に懲らしめと諭しを与えるのに役立つことになった。テモテへの第二の手紙三章一五・一六節。またペテロの第二の手紙一章二一節。神は、この働きを、誰であれそれを祈り求める者に対して拒みえない。聖霊は、天の父にこれを乞い求める全ての者に約束されているからである。我々読者を、我々の向かう著述家の実感の内へと移し入れる必要、また、詩人や歴史家がなんとか我々に与えようとする幸運な想像力の力により、我々をできるかぎり彼[著述家]の考えに近づけることの必用こそは、同じ尺度で他の書物にも等しくあてはまる規則である。
8,36
私はいささか、神の啓示について思い浮かぶ一般的考察を行ってみる。神は自らを人間に啓示するにあたり、自然と自身の書を用いられた。この二つの啓示の類似と関連については、いまだ分かたれず、明瞭に説明もされず、健全な哲学が広く耕地を開きうるような調和にも達していない。両者の啓示は、多くの場合、同じ仕方で、重大な反駁に対して護られなければならない。両者は、相互に説明しあい、支えあっている。我々の理性がそれについて下す判断が、たとえひどく矛盾しようとも、この両者は[本来]矛盾しえないものである。むしろ理性が自己を啓示しようとする方が、理性の甚だしい矛盾であり、その濫用である。
9,13
自然誌と歴史とは、真の宗教の基づくところの二区分である。不信仰と迷信とは、浅薄な自然学と浅薄な歴史記述とに基づいている。自然は、盲目な偶然にも永遠の法則にも服してはおらず、全ての事件が人物や国家的な基礎から説明されるというわけではない。
10,33
さらに神は、可能なかぎり、人間の傾向や概念のもとに、いやそれどころか人間の偏見や弱点にまでへりくだられた。聖書自体がその証言で満ちている。神の人間への愛を告げるこの優れた目印は、頭の弱い者には嘲りの機会を与える。彼らが、神の言として前提するのは、人間の知恵、すなわち彼らの好奇心・好事癖の満足であり、彼らの生きる時代や彼らの奉じる分派の趣味との一致である。彼らが考えるとき、なにか自分が欺かれたように思うのも無理はない。聖書のみ霊はまさに、無関心をもって退けられる。それどころか、み霊は、ヘロデの眼に救い主がそう映ったように、ろくすっぽ答もできぬ役立たず[でくのぼう]と見なされる。それも不思議ではない。ヘロデは彼を人目見たいと大いに好奇心と期待を抱いていたが、まもなく冷淡さ以上の仕打ちで彼をピラトのもとに送り返した。
11,6
モーセの書の内に世界の歴史を探そうとなど、誰が思いつくであろう。多くの人にモーセが非難に値すると映るのは、モーセが彼らにヘロドトスの寓話を説明し、補完する手段、ないしこれに反駁する手段を与えないという理由からだけである。仮に我々が、この世界の最初の歴史を、彼らが望むとおりに持っているとするとき、それは彼らに、なんと信じがたく非難に値するものと思われることであろうか。
11,27
こうして、ヴォルテールやボリングブロークのような者たちも、創世記の初めの五段落の内に、あの諸民族の最初の歴史記述を補完し解明するに足るものをほとんど見いださなかった。人類史一般のために彼らが見いだしたものは、大いに重要性を持っていたとはいえ。
11,31
創造を自然上の一事件として説明する哲学者の善意には事欠くことがなかった。それゆえ、彼らが、モーセもまた同じ思いつきを持った[はずだ]と考え、彼に物語ではなくそちらを期待するのは、不思議なことではない。私は[あえて]言う、物語と。この時代の概念に則って量られるところの物語とは、モーセの記した時代の諸概念といささかの類縁を有するに違いないのだが、説明を要求し、解し易さを事柄の真理にまさって重んじる頭には、ほとんど満足を与えることがない。
12,22
パウロは引き上げられた。彼は、自分が第三の天より携え来た諸々の概念を物語り、明瞭化することのできる言葉を見いださなかった。我々の耳は、空気の響きに触れられることなくしては、聞くことができず、理解に関わる聴力は全て、空気の振動の強弱に依存している。我々の観念もまた同じである。我々にその観念が欠けている場合、また我々自身の観念と同じものを他人のうちに目覚ましえぬ場合には、それらは様々な物体の像(イメージ)に依存している。ある言葉の比喩や語彙を他の言葉に移すことがいかに難しいかを、そこに見て取れる。諸民族の思考法が異なれば異なるほど、いっそう誤差とその補完、つまり言うなればその平衡へと強いられるのである。それゆえに我々の概念の及ぶ全範囲からはるかに隔たる事柄を我々に理解させ、我々に受け入れられるものとすべき物語は、いかなる姿であるべきというのか。
12,37
世界の創造主は、我々の地に働かれた最初の週の諸々の秘密について、我々に告げようと欲された。我々はそれを、いかに謙虚に、またいかに深く畏敬の念を抱いて、黙し見つめ、受けとめねばならないことであろうか。その出現が彼の満足をみた存在(もの)、それを長く保つことに彼が価値を見いだした存在(もの)、そして、より高い建物の足場にすぎぬとして、厳かに造ることを彼が[あえて]ひかえた存在(もの)、それらの創造の物語は短いが、短いだけにいっそう、我々の眼に重要でなければならぬ。神が、自らへりくだりたもうにつれ、我々の解しうる必要で有益なわずかのことを示したもうにつれ、神は、いわば、我々の思考能力を遥かに超えたものとなる。
13,9
創世記
神は名指された。最初の諸々の名や語の使用はここで神に帰される。
15,7
これに対して、我々の鼻の内なる生命の息は神の息吹である。こうして、我々の魂と体との結びつきの最も確かな徴であるところのものを、モーセは我々に、神の息吹の作用として描き出す。人間の魂の秘密に満ちた本性、その意義、その造り主への依存性が、きわめて感性的で単純なイメージで表現されている。
12
ロンギンは、モーセが至高の神に語らせ、神の語ことの生起するとき、モーセに驚嘆した。
14
人間の創造は、モーセの物語の中で、彼[神]の単なる言葉にまして、はるかに秘密に満ち、厳かな行為を示す。神の決定が、その前に導入される。神は、地の塵を形作る労を厭われない。そのほかのものの創造は、この点に関しては、にわか仕立てに見える。
18
最大の秘密は決定を下され、神は形作られた業に息を吹き込まれる。この息吹こそは全創造の究極であり、[それゆえ、]変貌された我らの救い主は、同じ様に、秘密に満ちた息の吹き込みのイメージをもってその弟子たちに彼の大いなる救いの成果を伝えた。ヨハネ福音書二〇章二二節。
23
モーセが魂のために用いる表現は、同時に、魂の霊的生命の感性像を含んでいる。我々の体と魂との結合が、肉体的な生命の息と結びつき、両者は途絶えるときも同時であるように、霊的生命は、神との結合の内にあり、霊的死は、両者の分離の内にある。
28
我々の息の贈り物は神からのものであり、そのみ手の内にある。その使用は我々の問題である。
30
我々は決して忘れまい。我々がその存在を生命の息から推論するところの自然的本性は、神の身近に属し、神に近い類縁のものであることを。それゆえ、それは、その根元にして源[なる神]に連れ帰られるほか、いかなる方向にも完璧なものとなり、幸福を得ることはできないということを。そこから反れることは、その本性と幸福に逆らうものであることを。我々の魂は、単に彼の言葉による存在ではなく、彼の息による存在であることを。彼の似姿として造られたものは、無に帰されることも低められることもできず、彼独自の無限の本性に対するきわめて親密な関係を持つことを。我々は、我々の生命力とその作用のために息を要するように、我々のすべての行為に対して、彼の助力を要する者であるということを。
17,17
無垢状態について、また堕罪状態についてのモーセの物語の諸根拠がいかに関連深いものであるか、また両者が、人間の創造と救済について私がすでに述べたように、互いに極めて厳密に関連するのがわかる。
17,31
ここでアダムは、神が彼に与えられた認識の試みを行う。詩篇九四章一〇節。神は光を昼と名付けられた、等々。ここで神は、アダムに動物を名付けることを委ねられる。
29,29
全地は一様の唇と一様の言語を有していた。神は、全ての人間的な事柄が服している自然の移ろいやすさのもとで、単に一つの言葉のみならず、一つの訛をも維持されていた。言葉は、思考法と慣習に強く依存しており、この両者は、その推移の内に、音声が他の形式を取ることなく、あまりに荒廃し対立してしまったが、そのゆえにこそ、この記述は奇異の念を抱かせるのである。
36
ここで我々は、人間の間の常ならぬ一致を見いだす。愚かさにおいて、またその心の邪悪な思いにおいて、その強さを誇る一致を。なぜならば、人間はその本性からして、唯一この点においてのみ互いに完全に等しく、完全に一つなのだから。「さあ、さあ」。三章四節が始まる。一つの都市、その先端が天にまで届く一つの塔。 −− そこから我々に生じ来る一つの名、等々。彼らが自分にある偉大な名声を約束したこの永遠の作品のために、彼らは石の代わりに、長持ちするかどうかあやしい煉瓦を用い、賢い石灰の代わりに流れ易い樹脂を持っていた。
30,10
神は、人類の内のこの一致が人類に害となるのを見いだす。人間の本性の癩病は、彼ら全てを穹窿の一つ屋根の下、丸く囲まれた壁の内に閉じ込めるよう勧めるには、あまりに伝染力が強すぎた。ベリアルの手下たちは、ベリアルの支配下の結合によれば、その支配をいっそう重く堅固なものとなしていたであろう。マタイ福音書二五章。こうして、言葉の混乱は、三位一体の厳かな決定として、また、人間がそこで自己自身の建設者となり始める不幸[を防ぐため]の唯一の手段として、神によって遂行される。
26
モーセは、人間の企てを妨げようとする神の熱意を、彼が人間に彼らの熱意を表現させるまさにその言葉で描いている。「さあ、さあ」 −− 。神は、自らをご自分の民に対置されるために、複数形でご自分を表現される。神は言われる。さあ、天よりへりくだろうと、低く降りていこうと。これこそは、それによって我々が天に近く来る途である。この、神の地へのへりくだりなのだ。理性の塔ではない。その塔の先端は天にまで達し、その塔の煉瓦と樹脂によって我々は名声を得ようと考え、その塔に翻る旗は迷える多くの者に目標の役を果たすとされる。
35
誰もが自分の言葉を理解し、誰も他人の言葉が分からなかった。デカルトは自分の理性を、ライプニッツは自分の理性を、ニュートンもまた自分の理性を理解した。それゆえ彼らは、自己自身を互いの間でいっそうよく理解した。我々は彼らの概念を理解するためには、彼らの言葉を学ばなければならない。我々は、彼らの資料を検証せねばならない。我々は、彼らの教理体系の意図や、彼らの示した根拠、彼らの目指した目的、また彼らの至りついたその結末を探求せねばならない。これは、彼らが我々に原則、経験、推論として課する彼らの約束や前提に近くない、等々。
31,4
神が地への呪い、また彼の耕地への呪いを中止したとき、おそらく神は、唯一の言葉、唯一の真なる認識に至る人間の結合をもご自身のみ手の内に残しておかれた。福音の伝播は、我々の心、我々の感性と理性とを一つに結び付ける救済の手段である。そして、古き契約、また新しき契約の預言者は、我々にバベルの破壊への希望をつながせ、人類の分散は、ユダヤの民の分散に等しく、終わる時のあることを告げる。世界の維持と支配とは、神の秘密が終局に至るまでの間は、持続する奇跡であり続けよう。使途行伝一〇章七節。
61,3
神の口に出ずる言のいずれもが、我々の魂の内なる思考や運動の全き創造である。知恵、悪魔が我らを羨む悟性は、我々が戒めを守るとき、我々をその目に尊き者とする。神がその言によって我々の魂の内に上らせんとする光にもかかわらず、神は自ら我々に近くあらんとする。彼の言あるところ、彼はおられ、彼の御子の居るところ、彼は居たもう。彼の言、我らの内にあれば、彼の御子は我らの内に居たもう。彼の言、我らの内にあれば、この言のみ霊は我らの内にある。我々が、彼に最上の伴侶たることを拒んだからといって、どうして神は我らの父祖を見放しえようか。
12
彼は天を離れ去り、天を荒廃させ空しくして、我らの心の内に来たりたもう。荒れはてた空虚な地を、楽園と化するごとく、我々の心を楽園に変えるのみならず、天の幕屋そのものを広げたもう。おお、神が重んじられ、その宿りを広げられたがこの土塊は、我々にいかに聖くあることよ。まことに、我々の哀れな霊はそのもとに住まうがゆえに。永遠より永遠へ、神の誉めたたえられてあらんことを。アーメン。
63,17
語りつつ創りたもう神
64,27
汝らは、声を聞きしのみにて、他のいかなる類似も見ざりし。汝らは、声を見しなり。神の用いたもう時には、言葉そのものが地から強きものとなる。汝らは、我が自らを啓きし二つの言葉の他に、他のいかなる類似も見ざりし。すなわち、我が霊の言と、かつて初めにあり、今も神そのものなる言の他には。何という、汲みつくしがたき啓示であることよ。我々にはただこれのみが、神の言の類似である。
67,4
神はかたられた、「光あれ」と。すると光があった。−− 人間を造るために神はへりくだられ、土塊を求め、これを形作り、彼に命の息を吹き込まれた。これが創造である。これが新しい創造である。これが救済である。彼の古き契約の業の全ては、彼が地上にへりくだられたということの内にある。
75,37
我々は、我々の本性[自然]のいかなる秘密を神の言の内に解きあかされて見いだすことか。この秘密を欠いては、人間全体は土にほかならず、形なく空虚で、深みの面を覆う闇である。ここには、いかなる人間の知性も測りえぬ深みがある。暗闇の上に横たわる深みが。我々には、その表面を正しく測ることすらも許されてはいない。我々が何かしらを知ろうと欲するならば、この深みの上を覆う霊、この形なく空虚で、暗く、秘密に満ちた世界を、他の創造も比べればその輝きを失うほどの、美と充溢と荘厳へと移しうる霊に尋ねることとしよう。
76,7
神が我々に与える戒めは隠れてはいない−−−我々から遠く隔たってはいない。人間よ、み言葉は汝に近く−−それは汝の口にあり−−−しかり、汝の心にあり−−−汝はそれを為すにあたっての困難や、それを怠る自由をあげて言い逃れることはできない。この戒めは、汝の本性[自然]のうちに、また汝の本質の内に織り込まれており、汝がその口の内なるこのことばを拒み、また破ろうとすると、両者はきっと途絶えてしまう。このみ言葉は、汝がこの世の生の最も容易な必要を満たすよりさらに僅かの手間しか必要とせぬ程、汝の身近におかれている。汝の口に出ずる息とは何か、それを吹き込んだのは誰かを想い見よ。[・・・・]−−我が臨在が、イスラエル人にとってと同様、汝にも十分に近づくとき、汝の心の内に、その深みの内にみ使いの呻くのを聴け。己の罪を知り、私に恵みを求めるみ使い、申命記五章で私がその声を聴き、そのことばの私の心に叶う者。アベルの血を受けるべく口を開いた大地のごとく叫び、彼のために流された血を認識し、我が復讐を恐れるみ使い叫びたてる汝の頑なと冷淡を心にとめず、。?
78,4
人間が自分の意のままにことを為しうる際に必要と見なし、また彼自身の義務と見なすものを、いかにして神は予め命じたもうか。その新たな一例を我々はここに見いだす。
それゆえ、我々の心の深淵には一つの声があり、この声をサタンは我々自身にすら聞かせまいとするが、神はこれを聴き、我々にもこれに気づかせようと試みる。神は、我々が知ることなく、関与することなく、尋ね求めることもしないのに、我々に突きつけ、差し出し、受け入れるように鼓舞し、さらには脅かして従わせようとまで倦むことなく努めた。その全てがいかに必要であるか、我々は、自己認識に達する際、すなわち思いがけず我々自身を真の姿において直視する際、いかに願い、希求し、心配し、実感することか。こうして我々は、我々の心の内に宥和者の血が叫ぶのを聞く。我々は感じる。我々の心の根底に、全世界の宥和のために流された血がふり撒かれるのを。そして、この血の復讐が恵みを求めて叫ぶのを感じるのである。聖書の全ての奇跡は我々の心の内に生起する。大いなる神よ。我々の堕落した本性の内に、汝は天と地を結びつけ、またこれを造らんと欲されたが、この我々の本性とは、その形の無さ、空虚さ、暗さのために、まさしくただ混沌に似たものである。その暗さは、独り汝のみ知りたもう深みを我々の目に見えぬよう覆っている。・・・・・・この荒れた地を、汝の口の霊をもて、良き肥えた土地となし、汝のみ手の庭となしたまえ。Josua 1,18
81,16
我々はしばしば、イスラエルが叫び、モーセが叫び、地が叫び、血が叫ぶのをよむ。聴くために神は耳を要することなく、また彼の聴くべき声も必要とはしない。彼の遍在と全知は彼の耳であり目である。[しかし]神の憐れみと知恵は全被造物に声を与えたもう。被造物のいずれにもそれ自身の声を。すなわち、いずれの被造物も神の慈しみをその幸福のために必要とし、神の補わねばならぬ限界と神の満たさねばならぬ尺度とを持つ。悪魔が罪の直中にある我々をさいなむかに見える時、神は我らが叫ぶのを聴きたもう。罪の眠りないし酔いのために、我々が、我々自身の他、何にも考えを向けられなくなってしまう時、神はそれゆえにいっそう我らを心にかけ、我らの叫ぶのを聴きたもう。我々がそこで陥っている困苦を神は知りたもう。この我々の困苦こそが、神が我々の声を聴くのに要する叫びである。幼い烏であっても、神が彼らの餌となる被造物を、彼らが飢えるまで、そのため彼らが神を呼び始めるまで与えずに止めておこうとするなら、いかに不幸となるであろうか。いかなるものも地にあって、声を要するまで時が経過することはないであろう。我々が回らぬ舌で語る前に、我々は飢えてしまうであろう。母親が声なき子供の叫びを解するように、神は我々の飢え渇き、我々の裸と汚れを感じ、我々がこのすべての困窮について何ほどを知る以前に、我々がまだそのためにふさわしき求めの言葉を口にする以前に、神は全てを計らわれた。しかも、ほとんど誰もこれに感謝することなく、神ご自身の叫びに耳を貸すことなくとも、これをなされたのである。神は、その叫びで、我々にその天を提供し、天の鍵と地獄の熱気を示して、我々がその前者をいっそう確実に選びうるように計らわれたのだが。
91,7
土塊を取り、これを形作るのみならず、これにまたその息をもって命を与えられたとき、父なる神はいかにへりくだられたことか。人となり、人のうちで最も小さき者となり、僕の姿を取り、人のうちでも最も幸い薄い者となり、我々のために罪せられ、神の眼において民全体の罪を負う者となられたとき、子なる神はいかにへりくだられたことか。地上で最も小さく蔑まれ何の意味もない事件を記す歴史記者となり、こうして人間に、人間自身の言葉、人間自身の歴史、人間自身の決断において奥義と神の道を啓示しようとされたとき、聖霊なる神はいかにへりくだられたことか。
91,25
自然は壮麗である。誰がそれを見渡しえよう。誰がそれを理解しえよう。自然は黙す。自然は生まれながらの人間にとって生命を持たない。しかし、聖書、神の言はより壮麗にしてより完全である。それは我々に最初の糧なる乳を与える乳母である。この乳は我々を強めて、次第に我々自身の足で立ちゆかしめる。彼女は我々の感性や理性におよぶサタンの魔の絆を断ち切る。我々の内なるすさんだ情熱の轟きは我々の耳を聾し、我々が自己を自覚せぬようにするが、この轟きも彼女にとっては静けさと喜びと永遠の天の平和に転じられている。
99,20
それに比肩するものはないとダビデはゴリアテの剣について語った。これが霊の剣である。サタンが人間の罪をとらえて射かけた矢を、彼、神のみ霊は、布の内に包んでエポデの後ろに持つ。それは我々が、敵自身の毒で敵を征しうるため。聖霊は、人間的に愚かで罪に汚れた行為の歴史記者にまでなった。それはダビデがアキシュをたぶらかしたごとくに振る舞うためであった。ダビデはその身振りを装い、淨さと知恵の霊を偽った。 −− 彼は門の扉に印をつけ−−−−−−−
28
聖霊は人間的に語り、書くことに甘んじるのみならず−−人間的にいっていっそう低くなり−−愚か者として、常識はずれの人間として、いや狂乱の者として−−それは神の敵の眼だけに対する装いだが−−[振る舞う。]彼は門の扉に図を描いたが、それによってはアキシュのような者は賢くなれなかった。この印は愚か者の筆跡と見なされる。−−そればかりではない。彼はその髭によだれを滴らせさえする。彼は、神の言として霊を吹き込むことによって自己自身に矛盾し、自己自身を汚すかに見える。
37
彼は、アブラハムの虚言や、ロトの血の汚しや、神の嘉する人の変装を、神の大いなる裁きのもとにおかれた人間と見なされる者の姿に、また人間の唯一の特権としての理性の使用を損なわれた者の姿に保つのだ。
100,1
これこそが、かつてダビデがかのペリシテ人を討ち取る際に用いたゴリアテの剣である。これこそが、神のみ霊が聖なる武器として布に包んでエポデの後ろに置き、ダビデの勝利のために備えられた我々の敵の剣である。
4
神よ。汝の知恵は、いかなる理性も驚嘆しつくせぬほどの、ただ黙して慨嘆し崇敬しうるばかりの配慮により、人間の愚か、人間の罪をキリストに向けての仕付け役となし、キリストにある我々の栄誉とされた。
8
神よ。人間の心にいかにして誇りの入り込むことができたか。聖書全体は一つの方法で書かれている。すなわち、汝は我々に謙虚を教え、ペリシテ人の誇りを無に帰す為に、聖書において自らへりくだることを欲された。汝は、筆を取って門の扉に、そこを出入りする全ての者が読むことのできるように、天と地の前に明かな形で汝の奇跡を書きとめる、ペリシテ人はこの汝の奇跡を常識を逸脱した人間の書物と見なした。こうして蛇の子らは、知恵を失って祝福された女の裔を束縛するが、それは彼らがその者を気違いと見なしたからであった。汝の使徒が公に狂乱の告発を被らねばならなかったのはなぜか。それは、汝のみ霊が彼を通じて真理と分別の言葉を語ったからであった。
106,4
自然の書の内なるいずれの文字も賢き創造主を告げ、諸民族の歴史の内なるいずれの行為も義なる統治者を告げ知らすように、聖書の内なるいずれの罪人も、人間のために世の救い主を叫び知らせている。
112,21
神の言の全ては、神の本性の徴であり表現である。こうして物質的な自然全体は霊の世界の一表現、一つの比喩であるように見える。全ての有限な被造物は、真理と事物の本質をただ比喩においてのみ見ることができる。
154,18
まさに神こそは、我々に命の息を吹き込まれた −− そのみ口より認識と理解は出でくる。[....]ただ彼を知るという彼の知恵においてのみ、魂の生命は成り立つ。これを欠くとき、魂は鼻よりたちのぼる息にさほど勝ることがない。
Spr.2,6
157,39
聖書は我々人間と、譬えをおいていかなる方法でも語りえない。それは、我々の認識がすべて感性的・比喩的であるためで、悟性や理性は、外界の事物の像をつねに抽象的で精神的なより高い概念のアレゴリーとなし、徴となすからである。158,3
神はその深慮を我々人間に隠され、我々の救いに必要な限り、また慰めに必要な限りを我々に明かすことをよしとされた。しかしそれは同時に、世の賢き者、この世の主(あるじ)なる者を欺く仕方においてなされたのである。使徒の述べるとおり、神は、取るに足らぬ者、見下されている者、それどころか無なる者を、その密かな配慮と隠された意志の道具となされたのであった。神はサタンが人間に対して仕掛けたまさにその罠を用いられたが、そうしてサタン自身を捕らえんとされた。神の知恵は、サタンが彼に誘惑された者によって、また彼の配下によって裁かれるのを見ることを欲された。その一方、神は、これら多くのサタンの手に陥った者たちを不思議な仕方で救い出された。
158,14
私は自分でこの考察を幾度も繰り返す。それは、私にとってこの考えこそが、み霊を、その高さと秘密を、またその真理と恵みを見いだすための主要な鍵であったからである。生まれながらの人間が文学的比喩、修辞的形容、あるいは原語や時代や民族の慣用語、些細な経済上の規則、ソロモンの知恵の中のシラハの慣用警句などの他に、何も見なかったところに、私はこの鍵を見いだした。
こうして神がヨブのために起こされた啓示において、人は、自然の希有な事柄のもとに、すなわち動物やレビヤタン、また蟻などの記述にとどまりつづけ、この覆いの核心を見ることなく、神のみ業なるこの怪物の目に見える姿の、霊的で目に見えず、隠されたみ業への関わりに眼が開かれることがない。
220,18
言葉の混乱は、神がそれを用いて我々と語ることを今なお続けられている歴史であり、現象であり、永続的奇跡であり、譬えである。
19
人々はまさに同じ言葉を語っていながら、しばしば誤って理解し、また単語の外的な徴と響きによってまったく対立する概念を結び付ける。まさにこのことこそ、我々が魂の持つ唯一の像を全く異なった徴で表現することの根拠をなす。
24
ここに我々は、神の似姿と堕罪の特徴を同時に一体のものとして見いだす。神の似姿ということには、動物を意のままに名付けるアダムの自由が属している。一方、堕罪によって、この自由の濫用とこれに由来する全ての不祥事が生じたのである。
28
それゆえ我々は聖霊の降臨の際に見る。聴衆の全てが使徒たちとともに、彼らの魂の内に同じ概念が生起するのを見るその様を。その の様は、聖霊がルカの口をとおして報告する、その外的な影響から推論することができる。誰もがその母国語を聞いたと信じた。全ての人の内に、覚え知った言葉の印象によって然るべき理念と実感がまさにそのとうり生起したのだった。[Luk.2]
221,1
不信仰はつねに神がその意図達成のために用いる手段の卑しさにつまずく。ガリラヤ人ではないか。
221,3
いかに?を知ろうとする好奇心。そこから生じる懐疑は、ついには、何故に?また、何のために?の問へと解消する。
5
教義家は、神の不思議の業の最大の嘲笑者である。
7
全ての出来事は、神の言と神の密かな意志の成就である。16節。天上の奇跡なくして起こる地上の徴は一つとしてない。
243,18
1.Pet.4,11
聖書は我々の辞書、言語術たるべきものであった。キリスト者の概念と語りの全てがこれに基づき、これに生じ、結び合わされるそのような辞書、言語術たるべきものである。
245,25
他の使徒達が福音、イエスの説教、イエスへの信仰などと名指すものをヨハネは命令と呼ぶ。ここに見られるのは、教えの真理が言葉や決まり文句にではなく、霊に、[その]意味と概念に基づいていることである。もしその意味と概念が神の言と一致する場合には、そのいずれの表現も許される。
愛そのものも、しばしば信仰の概念を持ち、それは、行動的信仰、息であり、あるいは信仰の命にして衣服に他ならない。
269,14
聖書や、経験を語る使徒が我々に告げるのは、我々の言葉や、言葉の概念や徴が、この至福の印象を受け入れも退けもできないということ、それのみではない。−− それ以上に、かりにこれが叶うとしても、我々の耳また聴力は、その印象を聞き取るには余りにも弱く、その印象によって聾せられ、破壊されてしまうことである。ただ信仰のみがその輝きを保ち、また我々に害を及ぼすことがない。そして我々は、モーセの顔のごとく自分でそれをそれと知ることがない。イスラエルの子らはモーセの顔を見て逃げたが、彼独りその原因を知らなかった。
291,29
Rom10,4-10
全能にして愛なる言は世界を造り、この言によって全てのものは造られた。この言の内に命はあり、命とは人の光であった。これは世に来た、全ての人を照らすまことの光である。まさしくこの全能にして愛なる言とは信仰であって、これにより、光と命は単に我らの外においてのみならず、我々の内にも生起しうるのである。こうして信仰は我々を保ち、また我々のために神が創り出された全てのものを保つ。信仰自体は神によって我々のために保たれる。ところが信仰とは、ある点で、我々のものなのである。我々はまさに、あたかも我々自身が全ての創り主であるかのごとき権利を有している。
292,6
神の言と信仰の松明を自然の内に携えゆこう。自然の創り主を認識し、あがめまつるために。我々は知らないか。我々に対する彼の愛は、大小様々な構想を皆造られたことを。自然の現象が自らを物語る全ては、もし創り主が我々にその備えを委ねたまいしならば、我々が実際に希望し秩序づけていたであろうその仕方で、それらが結び合わされている事実である。我々の時代の精神が、自然科学の秘密の内へと奥深く入り込むほどに、この事実についての彼らの証言は明らかになり、一致していく。
293,18
世界を創り出された力と知恵は、我々にとってきわめて近く、我々の口にあり、心にある。
293,24
我々哀れな人間は、我々自身を自然に従って形作ることも、また我々の被造物より救い出すこともできなかった。しかし神は、この両方の奇跡と秘密において、自らを人間に示される。そしてイエス・キリストの信仰において、この両者は我々に与えられる。自然は、その生成において神の人としての生成[受肉]を前提し、同じく恵みを前提している。イエス・キリストの信仰によって、我々が、我々の存在とその幸福のために神に乞い求めることのできる全てのものは存在する。32
神が、我々に体を贈り、その維持に必要な全ての条件を贈るために、我々に乞われることなどありえなかった。我々の魂に彼の似姿を与えるために −− また我々が弱いときに、我々の魂に栄光を作り出すために、またこの魂を我々の敵の妬みに対し守るために、我々自身によって乞われることなどありえなかった。
292,39
創造における全能と愛は、我々の口をとおし、また我々の心の内より語る。全てのものは我々がそれを望むとおりに、また我々がきっと語ったであろうその仕方で成り出でた。
294,22
アダムの物語にまして、恵みによって再創造された己が本性[自然]についてのキリスト者の考察を、かくも明瞭に我々の脳裏に描き出してくれるものはない。24
彼は深き眠りに陥る −− 神は、アダムがそこで己を自覚することのなかったこの深く眠りを用いる。それは助け手、すなわちアダムがその内に自分自身をより柔和にして美しく、より生き生きと形成された姿で再認した、かの遊び相手を彼にもたらすためであった。アダムは感嘆の叫びを発する。これこそは我が肉の肉、我が骨の骨、と。
30
神は、再創造された人間の変容した姿を、御子キリスト・イエスにおいて人間に備え、人間にもたらす目的で、罪の深い眠りを用いた。イエス・キリストは我々の肉の肉、骨の骨である。これこそは我々がイエス・キリストに対して有する権利であり、信仰はこの権利によって彼を、いわば、神自身の手より奪い取り、彼を抱きしめ、彼を独りじめにし、こうして彼を、いわば、神の手より奪い取ろうとする。なぜなら、神は我々の体の肋骨(あばら)を奪い取られたが、この骨は我々のものではないか、それゆえ我々は、再び見いだされた持ち物としてそれを奪い取り、我がものとするのだと。−−
アダムの告白は、きわめて突発的に彼の心より湧きいで、彼の口をついて発せられた。救い主なる神に対する信仰のことばも、まさに同じように我々の身近におかれている。アダムは、夢ないし予感のイメージがエファにおいて充たされているのを見いだしたらしい。まるで彼女が、彼の幸福に欠けていた当のものであるかのように。まるで神が彼にそれを約束したのに果たしていなかったのように。
295,6
それゆえこのアダムの告白と簒奪[の姿]において、信仰の本性[自然]は可能なかぎり生き生きと感性的に表現されている。
7
我々はさらに先に進もう。アダムは何によって彼の肉と骨を説明しているか。トマスに問うがよい。何が彼を動かして「我が主、我が神」と叫ばせたのかと。マグダラのマリアに問うがよい。彼女はアダムの物語[歴史]にいっそう関わりが深いのだから。彼女は庭番が彼女の名を呼ぶのを聞くやいなや、まさにアダムの喜びをもって「ナボニ!」と感嘆の叫びをあげた。ヨハネ福音書二〇章。汝ら自身の心に問うがよい。アベルの血にまして力強く語る血の声を、何において知るかと。信仰は神のみ旨と思いを等しくする。−− いかにして信仰は神のみ旨と思いを等しくするのか。
15
いかにして神はそのみ心をアダムの思いに等しくされたか。アダムの思いは神のみ心[そのもの]であり、神のみ心はアダムの思いであった。何が恵み深き神を動かして、エファを形作らせたのか。それはこの助け手[エファ]のような被造物を欲する願いがアダムの口と心に存したがゆえであった。我々は生まれながらに、全て我々に好ましく思えるものを得ることを願い、我々にそれを保証してくれる力を持つ者を乞い求める習いである。注目すべきは、神が、アダムの口と心なる言葉を、ある危険と災いから解き放たれ遠ざけられんと欲する願いとして、言い表すことである。すなわち問題なのは、[アダムの]不完全さであり、この傷害がエファによって取り除かれのだが、それはここで災いとして、その災いがエファによって消失し、回復されたと述べられているのである。
26
こうしてアダムは、彼の口と心にこのことばを見いだし、このことばをもってエファを我がものとなした。彼が見たものは、彼の本性[自然]の困窮が神の愛と摂理によって鎮められ、彼の心の問いが答えられる様に他ならなかった。すなわち神はアダムの願いに先立たれ、これを見越されたのであった。
30
信仰はこのことをまさしく同じ仕方で、しかしいっそう大いなる尺度においてイエス・キリストの内に見いだす。我々に欠けている全てのもの、それどころか我々が乞い、望み、願いうる以上のものが彼において我々に提供されている。汚れは全て彼において洗い落とされ、負債は全て彼において支払われている。敵の口は全て彼において塞がれ、不足は全て満たされている。彼において我々の支配が再建されるばかりではなく、諸々の限界すなわち と名望は高められる。神について、そのみ業について、その道について、我々自身とその本性の内なる様々の矛盾についての、知性の曖昧さはことごとく消え去る。世の偉大な賢者が、錯誤に陥らぬために自ら鎖に繋ぐ必要があると見なした感性的認識の限界によって、我々は守る。信仰は霊的、天上的にして永遠の対象の他、何をも知らない。神の独り子の懐に抱かれつつ、神の愛のみ心を見つめ −− その口をもって独り子を享受し −− 至高の神とその御霊の臨在を心に感じている。
296,29
ことば、神の御子、我々の信仰の対象は、我々に近く − [我々の]口の内にある −− 我々は彼の名において、また彼の口の霊においての他に祈ることができない。まことに我々に祈ることを教えるこの御霊こそは、神のことばの内に我々に魂の糧を与え、御子に対する飢えを与える。 −− 御霊は我々の心の内に御子を形作り、イエスが姿を得られるように計らい、我々の心を整え、我々が口にすることなく、そもそも口にすることの叶わぬ呻きに声を与える。こうしてその内に我々が生き、動き、存在しているところの者は、我々の口にあり、また心にある。そして彼の霊は、彼の人間への愛と、彼における我々の救いについての証言を、我々全てに理解し易く快いものとなす。我々は信仰においてこの証言を聞き、また信仰においてそれに従って生きる。
297,20
それゆえ信仰は全てのものを代表する。信仰は、神が我々の至福の条件となしえた最もわずかのものらしい。ただ神の御霊のみが、我々の内なるこのわずかのものに働きうる。結実をもたらすこの御霊は、信仰の辛子種を山をも移す強力なものとなし、この最も小さな種子を神の庭に植えられた最も大きな草木となす。私は確信する。いかなる心も、創造の歴史、また聖書全体の歴史が内に持つに等しい大いなる奇跡の演ぜられる舞台であることを。