♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
音楽に寄せて
散策の小径で
★風の響き
フルートなど木管楽器の響きを好む人は多い。音色が柔らかく人の歌声に最も近いということが、その親しみと愛好の理由だと思う。だが大きなパイプオルガンもまたその仲間であることはご存じだろうか。その体躯にかなった壮大な響きだけではなく、静かな祈りの声から軽やかな踊りの躍動まで、オルガンの魅力はその音色の豊かさにある。
職場の大学キャンパス構内に小さなオルガンが設置されて久しい。もともとは吉祥寺のある教会にあったものだが、火事の際に水をかぶってしまい、その後多くの人の世話で蘇り、改めてここに設置されたのである。楽器の規模は小さいが、内外の有能な演奏家を迎えて演奏会を積み重ねてきた。国立大学の催す無料コンサートとして固定的なファンも多い。すでにこれまで七〇回を越えたが、その中でもいつまでも記憶に残る演奏会がある。
アルノ・シェーンシュテット氏の場合もそうである。その最晩年、娘さんに付き添われての訪日であった。演奏家としてはすでに一世代前の人々に属するといえたであろう。しかしひとたび鍵盤の前に座ると、そこには北ドイツの伝統に連なる豊かな響きと力強い構想力の世界が広がっていった。その感動は拍手がやんでも途絶えることがなかった。
演奏会の後、企画の我々は、ねぎらいのために彼をロシア料理店に招待した。歓談のたけなわの頃である。「ロシアに行かれたことはありますか。」「ありますよ。」「演奏会はどちらでしたか。」「捕虜としてでしたが。」我々は言葉を失った。不明を恥じる我々を気遣うように「ご覧なさい。掌から甲の方に弾は抜けていったのです。」さりげないその言葉に、場は再び和やかな会話へと移っていった。だが私はひそかに、戦後の彼の苦悩と新たな修練の日々を想った。
人の手の入らないドイツの森を散策していると、ふと視野が開かれることがある。嵐に倒された木々がそのままの姿で交錯するところ、そこでは、朽木のうつろに反響するのか、不思議な風の音を聞く。一人の音楽家の姿にそんな荒野の様が想われたのである。
倒された切り株にやがて、オルガンの歌舌のように、柔らかなひこばえの生い育つ姿を。
★バッハのユーモア
人それぞれに歩幅が違うように、あなたの時と私の時は流れ方が違う。そのような歩みが決定的な瞬間に一致するとは限らない。バッハの『マタイ受難曲』には、その問題を的確に映し出す一場面がある。
最後の晩餐の後、捕縛を覚悟したキリストが、ゲッセマネヘと歩み出す時。「彼らは賛美を歌った後、オリブ山へ出かけていった。」このところ、「出かけていった」という歌詞は、一音ずつの上昇音形で歌われる。ちょうどなだらかな丘を登っていくように。ところが通奏低音の譜面を見ると、この上昇音形はその前の「賛美を歌った後」のところですでに始まっている。
ある解釈者はこの部分を評して曰く、弟子たちはキリストの祈り(賛美)がまだ終わらぬうちからもう勝手に歩み出していると。ゲッセマネの園で、キリストの血の滴るような祈りの際に眠りこけ、その捕縛に怯えて逃げ去る弟子たち。その魂の姿を、バッハは予めすでにこの箇所で描いている。
解釈者はさらに続ける。バッハはここで当時の礼拝の様子をも密かに描き込んでいるのだと。見よ、説教の後、まだ彼のオルガン後奏が終わらぬうちから、会堂を後にする会衆の姿を。私もかつてそんな光景を眼にしたことがある。
今も昔も、説教の言葉に比べて、音楽に寄せられる関心は低い。だがバッハの音楽からは、声高な不平も、人を刺す皮肉も響きだしてはこない。
神の言葉に対する心からの祈り。おそらくバッハは自らの音楽をそう自覚していた。決定的なときにまちまちな人の歩み。その全てを知りつつ受難の時を歩んだキリスト。バッハにとって頼むべきはこの神の時であった。それゆえに勝手気ままな人間の現実に煩わされることなく、むしろその全てを音の中にしっかりと描きこみ、作品として差し出すことができた。そこに、軽んじられる自らの姿をも諧謔をもって描き出すゆとりが醸し出されるのだ。
オルガンの余韻の内に散策をすると、午後の光がなんと違って映ることか。木々を揺する風の軽やかなフーガに促され、新たな週の営みへ向けて勇気が湧いてくる。