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美術館を訪ねて
旅の途上で
★バーゼルのキリスト像
アルプス山中に源を発したライン川は、一旦はボーデン湖に流れ込むが、この広々とした湖の西端から再び流れ出てシャフハウゼンの大瀑布となり、アルザスの広野をさして下っていく。その流れが大きく北に転じる所、バーゼルは、独、仏、スイス、三国の国境に位置する。昔から様々に人々の心を惹きつけてきたその町を私が訪れたのは、ホルバインの一枚の絵を見るためであった。
横長の奇妙な絵。十字架から下ろされ、横たえられたキリスト。死して血の気のうせ、青白い裸をさらすその姿。虚ろに見開かれたその眼がどこにも焦点を結んでいないのは明らかだ。そこには慰めとなるもの、光輝や威厳を伝えるものは、片鱗すらない。傍らに嘆くマリアや弟子の姿もなく、すでに独り墓の中に横たわるかのごとく。
処刑者をモデルとしたというその様は、まさに死の暴力に屈して無惨にもうち捨てられた人間の無力な姿そのものである。
私がその絵の存在を知ったのはドストエフスキーの小説『白痴』においてであった。純真無垢な人格として描かれる主人公ムイシキンは、現実の悪と罪との闘いに破綻し、再び錯乱へと陥っていく。しかしそこでは、およそ正反対の悪者ロゴージンの人格もまた、主人公に匹敵するほど陰影深く描き込まれている。
作品の中程で、この対照的な心性の二人が、不思議にも心をかよいあわせる場面がある。その契機となるのが、このキリスト像なのである。そこでロゴージンは、人が「信仰を失いかねない」この絵が「好きでたまらないのだ」とムイシキンに告白する。
生半可な救いのイメージでは、おそらくロゴージンのような男の心を捉えることはできなかった。絶望そのものとなったキリストの姿が、自らの闇を自覚したこの男の存在の亀裂に深く喰い入ったのだ。あるいはそこに、「私のホサナはゲヘナの劫火の中から発せられた」と述べた、ドストエフスキー自身の実感をも二重映しに見ることができるのではあるまいか。
美術館を出て舗道をゆくと、町は晩い春の雨に煙っている。ラインが泥色の濁流となって岸壁を洗っている響きが聞こえた。
★ブリューゲルの一枚の絵
旅の途中、その地の美術館にはつとめて立ち寄ることにしている。あらかじ
め、どうしても見逃せぬ作品を調べてゆく。だが、時には思いもよらぬ出会いが
待っている。
九二年の冬のウィーン、美術史美術館を訪れた。ピーテル・ブリューゲル(
父)の作品をぜひ見ておきたかった。「農民の婚礼」や「子供の遊戯」など、当
時の民衆の生活をリアルに描いたあの画家である。
写実や象徴によって、人々の暮らし、その喜怒哀楽を描き出す。透徹した眼
差しと冴えた筆。そこからは、生の現実を見つめる画家の心の温かみも伝わって
くる。
空気遠近法によって、ひろびろと描き出された空。世界は高みから俯瞰され
、遠ざかるほどに山影は薄らいでゆく。ブリューゲルの描く四季の自然は、深い
精神性すら湛えている。人間の生活もその中に営まれる。
そんな彼らしい絵を次々と眺めていくと、予期せぬ一枚に出会った。まず目
に映るのは、きりたった茶褐色の岩肌。背景のまばらな針葉樹。山道の途中から
見渡すように遠く広がるすそ野。いかにも彼らしい構図である。
画面左から、険しい坂道を登ってくる兵士の列。道は、画面中央で左に折れ
、正面奥に向かい、さらに右手奥へとのびていく。驚いたことに、ほとんどの人
物が後ろ向きで、最初は何が描かれているのかわからない。
兵士らの視線の向かう方向に目をやると、初めてそこで「事件」に気づく。
落馬したのか、一人の人が地面に打ち倒されている。画面の大きさに比べてその
姿はあまりに小さい。表題に目をやる。「聖パウロの回心」。
ダマスコへの途上のパウロなのだ。彼は遠景の中におかれ、目立つのは荒涼
とした自然のみ。だが、その絵は強烈に心を打つ。
何事かといぶかしむ兵士たち。しかし、その出来事そのものは関心の外。目
をこらさなければ見えないほど、人物や背景の中の一点にすぎない。だが、この
一人の男のぶざまな姿に実は、周囲の天然の、いや世界そのものの「呻き」が凝
集され、いまや響きだす。
ローマ世界の遙か東のはずれ、ひとりの男の内面に生じたことがやがて世界
を動かした。本当に普遍的なことは、この「わたし」という小さな心の片隅に始
まる。