♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

私の文学散歩
散策の小径で

 

★永遠に女性的なるもの
 
 「永遠に女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ。」ゲーテの『ファウスト』の大団円。ファウストの魂は、かつての恋人グレートヒェンに導かれ天に昇っていく。この作品に初めて接した時、その言葉は私の心に憧れの疼きに似た甘やかな響きを残した。
 二十代の前半。将来の途が定まらず、その不安から逃れるように旅立って、二年程をドイツの田舎町に暮らした。目的は勉学だったが、実際は内面の窮乏を抱えて、専ら自分自身の孤独と向かい合う日々だった。机に向かわないときは森を散策して過ごす。その単調な毎日、迷いの自覚のみ鮮やかであった。
 乏しい荷物の中に聖書があった。なぜそれを携えていったのか、自分でも分からない。ページを繰るうちに、その言葉に生きる人の生きざまに関心を抱き、とある教会の礼拝を「覗いて」みた。会堂の賑わいの中で注目されない事が、かえって好ましかった。ひっそりと隠れるように専ら説教だけを聴きにいく。そんなことが続いたり途切れたりした。
 久しぶりにそんな風に訪れた時のこと。礼拝の後、一人の老婦人が近づいてくる。「しばらく姿を見なかった。元気でいるかどうか気になっていた。今日、人を招いてあるから一緒に来なさい」と言う。断る契機を見いだせぬまま後についていく。町外れの川の畔。一室だけの質素な住まい。そこで慎ましい昼のもてなしを受けた。手ずから料理された魚。食前の祈りの後、「お魚は食べ方が難しいのよ。どうやって骨をとるのか見ておいで。」世話をやくのが楽しくてたまらないと言う様子に、私の心は不思議に和んだ。
 戦争の後、東独地域から逃れてきた、とその婦人リュディアは告げた。看護婦として勤め上げた後は、自らも教会の世話を受けて一人暮らし。しかし、今でも毎日のように病院の患者を尋ねるのを喜びとしている、と語った。
 十数年の時を経て、かつての留学の地に立った時、リュディアに再び会うことはできなかった。昔の散策の径を辿りながら、胸の中に実感される言葉の響きがあった。「永遠に女性的なるもの。」ドイツは外国人排斥の逆流に揺れていたが、一人の婦人の想い出において、私のこの国への愛は動かなかった。


★想像力の翼
 
 留学時代に暮らした小さな町。下宿の裏手から、もうぶなの森が始まっている。樹木の間の薄暗い小径をゆくと、『死に至る病』の一節が思い出された。不思議な鳥の鳴き声に魅せられ、その姿を追い求めて奥深い森に迷い込んでいく一人の騎士の挿話である。
 著者キルケゴールが、この森の譬えで描き出したのは想像力の迷路であった。彼は言う。疲弊した日常と精神の枯渇から人を救い出すためには、想像力の翼が不可欠である。人は、感じ、考えるため、また信じるためにもこの翼を必要としていると。
 しかし、想像力は両刃の剣でもある。その無限の可能性は、人の憧れを遠い彼方へと導いていくように見えるが、その実、自己の内面への果てしない堂々巡りへと誘いこんでいく。ついには「いばら姫」の城を覆う蔓のように、日常の世界に立ち戻る道をすっかり隠してしまう。
 キルケゴールは、現実への帰還の道を失ったその人間精神の姿を「可能性の絶望」と呼んだ。
 今世紀ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデ。彼はキルケゴールをよく読んでいた。代表作『はてしない物語』は、まさにそのような想像力の森を描いている。主人公バスティアンは、空想の国ファンタージエンに招かれ大活躍する。この物語の国はこの少年の内面世界であろう。その世界に深く入り込んでいけば行くほど、彼は現実に戻れなくなる。
 彼が、父との気まずい関係や通学時のいじめから逃れようとして、この書物の中の世界に逃れていったことを思い出そう。彼がその日常の世界へ帰れなければ、彼は空想の森の中で喪われてしなうのだ。児童文学やファンタジーは本来、この彼方への飛翔の翼と、帰還の扉を二つながら常に備えている。
 子供たちを初めこの時代、人は本を読まなくなった。代わりに流行るのはインターネットや衛星放送など、視覚的な媒体の世界である。映像の力で、想像力の森はどこまでも拡大を続けていく。人との現実の出会いを嫌い、むしろコンピュータの端末と向かい合うことを好む人々。しかし彼らはその仮想の現実からどこへ還るのだろう。
 舞い上がる翼は麗しい。しかし立ち戻る意志は、辛い修練と見栄えのせぬ地味な着地なくしては鍛えられない。現実に立ち戻る力、それは、大切な人との人格的な出会いによってしか培えぬものなのだ。



次のページ

表紙に戻る