ある日のこと。
このころ娘はもう
ひとりの女に成長し、
女は森林官に身をあずけるように、
ジークリートは女の肩を支えるようにして
いつもの道を辿っておりましたが、
やわらかな肉付きに
樫の枝のようにしっかりとした骨格を感じつつも、
森林官は女の歩みに切なげなおぼつかなさを、
そしてかすかに女が
「こわい」と囁いた声を聞きました。
女の姿はそこで
いつもどおりにかき消えましたが、
森林官は
森の方がぞおっとするほどに
冷え冷えとしていることに気づいて
はかりしれぬ不安を抱きました。
それ以来
女の姿はついに現れず、
かわりに
森の外から、
噂や
ささやきが押し寄せるようになりました。
この国の王が、
実の兄である隣国の王と
戦いを始める準備をしていると。
それはもう
先の見えた絶望的な戦いであると。
そしてある日、
森林官は
今まで会ったこともなかった上役に
急に呼びつけられ、
城に上ることになりました。
あわてて身なりを整えてあがりますと、
あいさつもそこそこに
森林官が受けた命令は、
なんと
「森を燃やせ」
その一言でした。
森の外のことについては
知識のない森林官ゆえに、
世の中の営みや
その移りゆきについて
なにも申すことはありません。
ただひとつ、
森の大切なことは
身にしみて分かっておりましたから、
そんなに大切なものを
燃やせという
王の決断のうちに
どんな深慮があるのか、
ジークリートは
心ふたぐ思いで
尋ねたいと思いましたが、
ただ「森を燃やせ」と
繰り返されるばかりでした。
深慮なぞありはしません。
昔から戦争のたびごとに
木々は切られ、
森は焼かれてきました。
ただ、普通は敵の手によって
籠城をする城の周りの木々が斬られるのに、
血迷った弟王にとっては、
森を残しておいて
迫り来る敵に隠れどころを与えるのはしゃくな話。
いっそ更地にしてしまおうと
とんでもないことを考えただけなのです。
言い逆らうことは許されず、
とはいえ何とも納得できぬ思いで
森林官は家に帰ってきました。
森のへりから人々はとうに逃げだしてしまい、
里はがらんとしておりました。
梢に充ちていた鳥の鳴き声も今はなく
水の内にも泳ぎ戯れるものの気配すらありません。
家にたどり着いた森林官は、
なすすべもなく
しばらく呆然としておりました。
すると森の入り口の方から
ぱちぱちと火の手の上がる音。
よどんだ空気をかろうじて伝わって
木々の焦げるおそろしいにおいが漂ってきます。
森林官の態度に業を煮やした上役が、
それなら自らの功をあげようと
手を下したのでした。
勝ちどきのような人々の声があがり、
ジークリートはもう
気が動転してしまいました。
どうしたらよいのでしょう。
そして思い出したのは
クララのことでした。
「こわい」と囁いた声の記憶が
まざまざと返ってきました。
クララを救わねばならない。
一瞬の決断でことはきまりました。
土掘りといそいで水を入れた革袋を手に
森林官は森の奥を目指しました。
王の錯乱によって
惑わされた民と兵士たちの手で、
森は焼かれていきました。
火の勢いは狂った風の流れを呼び
炎の怒号はさらに猛り狂って、
果てしなく思われた森も
いまにも劫火に呑みつくされるかのようです。
ジークリートは幾度も炎に追いつかれ、
森林官の緑服もいまは焼けこげて、
みすぼらしいものとなってしまいました。
でもそんなことは気にもなりません。
いまは恐れる気持ちすらわすれてしまいました。
炎の唸りも勢子の声もなにひとつ聞こえず
ただクララの声を聞こうとして
趨りにはしりました。
しかしクララの姿はどこにも見えません。
その声も聞こえません。
ジークリートの呼び声だけが
猛る炎の間に響きます。
やがて森もあらかた炎にとらわれ、
ただその最も奥深くの
大きな樫の木のあたりのみが緑に残されました。
ようやくそこにたどりついたジークリートは、
樫の大きな根の一つに身をもたれかけ
絶え絶えの息に
虚しくクララの名を呼んでおりましたが、
ついに民の手がここにも迫りました。
勝ち誇る兵が、
これですべてことはおわりと
樫の木にまさに炎を放とうとしたとき、
ジークリートは、
この木だけは許してくれと
その前に立ちはだかろうと立ち、
そして兵は
邪魔は許さぬと剣を掲げ、
ジークリートを一撃で討ち果たそうとする、
そのときでした、
忽然とジークリートの姿がかき消えたのは。
それはまるで、
彼が背にしていた
樫の木が彼の体を抱き取ったかのごとくでした。
剣を掲げた兵士は、
突然目のまえがまっ白になる
その出来事に恐れをなし
腰を抜かしましたが、
事態ののみこめぬ民は気圧されることなく、
つぎつぎに松明を
樫の木に投げつけました