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J・G・ハーマン研究・余滴
詩誌「PO」179号(2020.11)掲載


ヒュメナイオスの秘儀




 1847年、キルケゴールは日記にこう記した。

 「奇妙なことだ。昨日私はヨーエン・ヨーエンセンと話をした。彼は今、ハーマンを熱心に読んでいる。彼は、ハーマンの著作集の中に、ハーマンがその妻と結婚せず、教会で式を挙げることなしにその妻と暮らした、と述べている箇所を見つけた。つまり内妻としてだ。そこで私も熱心に探したが、見つけることはできなかった。それは私にとって、あの時には大変重要なことだったろう。だが、やはり私の助けにはおそらくならなかった。しかし、ハーマンがそんなことを敢えてしたと知っていたら、ことは別な展開を示しただろう。もちろん私もその可能性を考えたが、ハーマンがそれを実際に行っていたとは知らなかった。だが、私はその頃、そんな仕方はできないと確信したのだ。」

 キルケゴールと恋人レギーネ・オルセンとの間の、不幸な、しかし彼の著作活動にとって実り多き関係については、すでに多くが語られている。生涯、片時も忘れることのなかったレギーネとの婚約(とその破棄)の問題を振りかえって、キルケゴールは、一時期ハーマンの先例に注目したことがあった。しかしそれについては、今日、このような片言しか残っていない。

 ハーマンとその妻レギーナとの関係については、ゲーテもまた関心を抱いた。『ゲーテとの時』第6集に「ハーマンの内縁」と題して一文を草した匿名氏は、ゲーテの同棲生活について、こう述べている。

 「この慎重で用心深いはずの人は、にもかかわらず色々な体験や内面の衝動に押されて〈同棲生活〉をおくるに至ったが、その場合にもきっと先例や経験を見回してそこから学んだに違いない。」

ゲーテがクリスティアーネ・ヴルピウスとの同棲を考える際に、当然ハーマンのことが念頭にあっただろうというのである。ではゲーテはハーマンのどういう点を参考にしたというのか。

 クリスティアーネがゲーテに対して同棲後も敬称で呼びかけていたことは、二人の属していた社会階層や精神世界の隔たりを暗示している。それは、ハーマンとその内妻アナ・レギーナ・シューマッハーとの間にも、ある程度当てはまる。そこから筆者は、その隔たりが妻の立場を困難にすることを避けようとして内縁関係が選択されたと示唆するのである。いわば女性への思いやりの故にかかる選択がなされたというのだが、この論拠はやはりかなり苦しい。ゲーテにおいて、またハーマンにおいても、その婚姻の姿は、当初から研究者にとってまことにやっかいな問題であった。この匿名氏のように差し障りなく述べるか、あるいは全くそれに触れない方が無難であったろう。

 19世紀初頭、最初にハーマンの著作集を纏めたJ・ロートは、彼の私生活を暗示する書簡などをことごとく省いてしまった(キルケゴールが当該箇所を見いだせなかった困難の理由はここにある)。ロートの友人でもあったヘーゲルは、この著作集の書評として初めての本格的なハーマン論をものし、そこでハーマンの婚姻にも論究した。たが、これも後にヘーゲルの著作集が編まれる際には、社会的な影響をはばかって削除されてしまう。そこに、この問題を巡る当時の雰囲気を感じとることができる。しかしまた、こうした背景に翳すと、ハーマンやゲーテの立場もまた逆にくっきりと際だってくる。内縁という点において、時代の背景の中で二人の選択は同じ方向を向いているように見える。しかしそれは本当に同じなのか。

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 プラトンは『饗宴』において、貧窮の神ペニアと策術に富む神ポロスの子として生誕したエロスは、母方の出自から自分の貧しさを知るとともに、その父方の由来ゆえに弛まず知を追求する、と述べる。美しい肉体から美しい魂へ、さらに知や美のイデアへと上昇しつつ、その価値を追求するダイモーン(神霊)として、プラトンは、エロスの「智への愛(フィロソフィア)」の歩みに哲学を基礎づける。このあまりに「プラトニック」な思考は、アリストテレスやヘレニズム思想において、性愛の意味をより深めつつ、むしろ友愛(フィリア)の下位に置かれる。キリスト教が登場すると、エロスの「価値あるものを求め、それを所有したいと願う熱望として、神的なものにまで昇っていく愛」は、「価値の有無を問わず、むしろ価値なしとされるものにこそ贈られる神の無償の愛」アガペーと対置される。アウグスティヌスは、両者をひとつに統合し、エロスに発した探求が、挫折してもアガペーに助けられて、神と真理を観照する聖い愛「カリタス」に至る、と説いた (金子晴男『愛の秩序』)。

 中世に至ると、十字架におけるキリストの自己犠牲的愛は、愛の「まねび」において倣うべきものと見做される。トマス・ア・ケンピスの修道書はその一例だが、宮廷社会に花開いた「騎士道的愛」にもその一つの変容を見ることができる。11世紀南フランスの吟遊詩人「トルバドゥール」や、ドイツの「ミンネ」詩人に歌われた「恋愛詩」においては、見返りとして性愛の成就を求めない自己犠牲的な愛が讃えられる。神への恭順、カリタスの位置に、特定の貴婦人への献身が据えられる。これは、恋愛を単なる性衝動の充足とせず、精神的なものに昇華させるという意味で、エロス的愛の新たな発露でもあった。この時代の騎士道物語は「ロマンス語(民衆ラテン語)」で書かれ、後の「ロマンティック」な恋愛詩の範となったが、13・14世紀には、詩人の自我が深く自覚される一方で、対象となる女性像はいっそう理想化される。ダンテ『新生』『神曲』の「ベアトリーチェ」、ペトラルカ『カンツォニエーレ』の「ラウラ」はその典型である。彼女たちは、愛そのものを象徴する存在として、詩人を天上にまで引き上げてゆく。ゲーテ『ファウスト』第二部の「かつてグレートヒェンと呼ばれた贖罪の女」もまたそのような存在といえる。「永遠に女性的なもの、われらを高みへ引き上げゆく。」最終合唱のこの一節をもって詩劇の幕は降ろされる。

 「永遠に女性的なもの」とは何か。 ドイツ詩の展開を辿る際に、ゲーテの抒情詩は一時期を画するとともに、すでに一つの頂点を形作る。挙げればきりが無いが、例えば、「美しい夜」(1767)、「五月の歌」(1771)、「新しい愛 新しい命」(1775)、「旅人の夜の歌」(1776/1780)、「ローマ悲歌」(1788)、「要するに」(1807)、「ズライカの巻」(『西東詩集』1815)、マリーエンバード悲歌」(1823)。ランダムに数編を挙げたが、成立はゲーテの生涯全てに亘っている。成立の事情を含めて解釈する際には、次の名前を列挙しなければならない。アナ・カタリーナ・シェーンコップ、フリーデリケ・ブリオン、アナ・エリーザベト・シェーネマン、シャルロッテ・フォン・シュタイン、クリスティーネ・ヴルピウス、ミンナ・ヘルツリープ、マリアンネ・ヴィレマー、ウルリーケ・フォン・レーヴェツォフ。右の一篇一篇の詩に、それぞれ別な女性との交わりが与る。恋愛の情緒を「機会詩」として記し続けたゲーテは、生涯、青春を謳歌し、老いることを知らなかった? その詩によってゲーテは彼女たちの名を歴史に残したが、それぞれ人格を異にする彼女たちの総体が、「永遠に女性的なもの」なのか?

    燦然と
    自然は燃え
    陽は輝く!
    野は笑う!

    花々は
    咲きこぼれ
    囀りは
    茂みに溢る

    喜びは
    胸に噴き
    おお大地 おお太陽!
    幸福よ おお喜びよ!

    おお愛よ 愛よ!
    […]                (山口四郎訳)

 「ゼーゼンハイムの歌」の一篇、フリーデリケに寄せた詩「五月の歌」は、しばしば朗読され、歌曲として演奏されるが、耳にすると、光溢れる外的自然に詩人の内的な自然が重ねられ、唯一無二の律動が響き出す。ゲーテの恋愛抒情詩は、何よりも湛えられた自然の充溢において比類無きものである。一方でこの時期の詩「野ばら」は、「悔恨」の主題となり、譚詩「不実な若者」を経て、『ファウスト』第一部へと連なる。晩年の恋愛は、むしろ強いられた愛慕として失意と悲しみを湛え、古典期の詩人は、「諦念」を語り始める。ゲーテの詩的女性遍歴については、久しくそのように語られてきたが、20世紀には、ゲーテにおけるニヒリズムと、およそ正反対の述語も帰される。

 W・ベンヤミンは告げる(以下引用は、浅井健二郎訳「ゲーテの『親和力』」)。「彼の生涯のいくたの恋愛関係においてゲーテのうちにあった第一のものは、そもそも諦念ではなくて、懈怠だったのだ」と。さらに、「自然を偶像崇拝することは、芸術家ゲーテという存在における神話的な生形式なのである」と。「自然の生の無定型の遍き支配」に委ねたとき、恋愛経験の個別的人格性は「神話の呪縛圏を形成」するものの内に解消した。「懈怠(けたい)」とは、そのような消息を指すものであろう。

 一方でゲーテは、自然の神話的本質を「デモーニッシュなもの」と呼び、「不安」のうちにその諸力に対抗し、また宥和を保とうとした。これは「壮年期ゲーテがたえず繰り返し新たに、内心は怖れを抱きながらも鉄の意志をもって敢行した試みだった。だが、彼が自分を強いた最後の、そして最も重大な屈従の後、つまり、彼には婚姻関係が神話的拘束の象徴として脅迫的なものに思われ、三〇年以上にわたって結婚に抵抗し続けたのだったが、この戦いでついに降伏した後、その試みも挫折した」。これは内縁関係を続けていたクリスティーネ・ヴルピウスとの結婚(1806年)を指している。

 自然の支配を最も強力に脅かすもの、それは「死」であるが、「死および死を表す一切に対するこの詩人の嫌悪」は迷信の特徴を備えているとして、「彼が妻の臨終の床へ一度も赴かなかった」ことをベンヤミンは例示する。神話的脅威としてエロスがタナトスと結ぶところ、そこに「永遠に女性的なもの」による救済が求められたのだと。

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 ハーマン Johann Georg Hamann (1730-88) の生涯・思想を考える際に、1758年の「回心」の意義は決定的である。商務を負って赴いたロンドンの旅先で、彼は全存在の危機に直面する。その「自己認識の地獄堕ち」を経て、初めて彼は、人間の自恃を求める時代傾向との対決を使命として自覚した。その著作活動は、象徴的な形で開始される。ハーマンを派遣した商会の頭首ヨハン・クリストフ・ベーレンスは、大学時代、ともに啓蒙主義に傾倒した仲で、彼のキリスト教への「転向」と「熱中」を遺憾とし、もとの啓蒙の陣営へと彼を取り戻すべく、気鋭の学者カントに助力を請う。このカントとの対決を通して彼の処女作『ソクラテス追憶録』(1759)は著された。

 友との決裂は、ハーマンの結婚問題にも大きな影を落とした。ロンドンより帰国、リガの商家ベーレンス家に再び迎えられ、そこで彼は、一家の長女カタリーナを「神の手よりの花嫁」として見いだし、一旦は婚約が成立する。しかし彼の「回心」を巡る軋轢ゆえに、婚約はベーレンス家の側から解消される。しかし彼にとって、カタリーナの存在の意義に変化はあり得なかった。だが問題は、単純ではない。ハーマンはやがて、アナ・レギーナ・シューマッハーと所帯を構え、四人の子供を授かるにまで至る。彼はその三人目の子にカタリーナという洗礼名を与えたが、そこに彼の心を窺えるとはいえ、そもそもこの新たな関係はいかなる意味を持つものか。

 成立からしてそれは尋常なものではなかった。1762年、レギーナは、彼の父の家に料理女として入った。彼女は彼の父の世話をし、やがてその臨終を看取り、さらに精神の病の兆候著しかった彼の弟の面倒をみる。ハーマンと、この「まことに健康な農民」の娘との関係は秘密に満ちている。父の勧めによって、この娘との結婚が取り沙汰される。しかし彼は、「神の手よりの花嫁」のゆえに躊躇い、彼女を「ハガル」(創世記16章以下参照)としてのみ受け入れた。この関係は、彼女自身の拒否もあり、すぐには成立をみなかったらしい。しかし、1767年の父の死後、残された彼女を彼は引き取り、いわゆる内縁関係(Gewissensehe 「良心の婚姻」)が成立した。弟子のヘルダーをはじめ周囲からは大変な顰蹙をかったこの関係は、家庭としては概ね幸福に営まれたようである。

 1774年の末、ハーマンは『ある巫女の婚姻試論』と題する小著を著した。古代ギリシャの神託を告げる巫女預言 (Sibylle)に微行し、結婚と性の問題に神託を下す内容。伝統的な聖俗の境界を跨ぎ、古今の古典を驚くべき仕方で「つぎはぎ Cento」にして、イロニーとフモールにより問題を闡明(せんめい)する。ハーマンの典型的な文体である。

 聖俗・霊肉の区別を越えて自然や歴史の内に遍く貫かれている「神のへりくだり」。それは、回心の際に開かれた「神のことば」の実相であった。(聖書のみならず)全ての文献の内に神の語りを聴きとることが出来る――それゆえハーマンは、「十字架の神学」を唱えたルターの系譜に立処を定め、「十字架の文献学者(愛言者) Philologus crucis」と自称した。自然や歴史のうちに、神の語りかけならざるものは一つとしてない。とすれば、十字架、すなわち「神のへりくだり」の姿は、聖ならざるもの、時代の顧みぬもの、俗なる者、卑しきもの、醜きものにも映し出される。ハーマンの表現は、世俗・異教・神話世界に開かれるに留まらず、(時代の判断で)醜・不浄・俗悪(とされるもの)をも取り込んで、「つぎはぎ」を形作る。

 その萌芽はすでに処女作の内に見られた。実存の全てをかけた対峙、それは綺麗事ではすまぬ。ソクラテスの少年愛に目を瞑ろうとする啓蒙主義の嗜好を「愚かな労苦」として退け、ハーマンは生身のソクラテスを提示する。―― ソクラテスの「無知」とは、倫理的無力をも含む全存在的な実感であり、その容貌と内面の矛盾は彼の存在に大きな悲しみを刻印したに違いないと。この矛盾を担ったソクラテスの言葉を、ハーマンは牧羊神サテュロスの姿になぞらえる。第二の著作『文献学者(愛言者)の十字軍行』(1762)を著す際にも、自らその著者の姿を、扉絵の牧羊神パーンの姿をもって暗示した。

 この異教的仮面の背後に感得されている人間の問題性とは、「罪の座」としての体の問題である。ニンフへの失恋を葦笛の音で紛らわすパーンの「下半身の悲しみ」に、実存のどん底の呻きが託される。その形象の醜さはショッキングであるが、ハーマンはあくまでもそれを聖書的に、霊肉不可分の人間の全存在的問題性として捉えている(「性」そのものが罪と見做されてはいない)。それは、パウロがロマ書七章に、彼の内に矛盾が存在し善悪を巡る戦いがある、と述べている現実に通じる。その告白への共感をパーンの像は象っている。ハーマンは、神の言を受けて語る信仰者もまた、生身の人間としてかかる矛盾を担い、罪との格闘という現実の内にあることを告げる。翻って、その現実から目を逸らし、上辺だけ美しく取り繕った時代の思想や宗教が根を欠いていることを揶揄するのである。

 論集『文献学者の十字軍行』を代表する一篇は『美学の堅果(くるみ)』であるが、その文体は「詩的散文」ないし「哲学的散文詩」と銘打つに相応しい。古今の文献から引かれた形象や隻語が、「ブリコラージュ」的に重ねられ、簡勁な短文が並列されてゆく。どこか、現代詩(の昨今の一傾向)をも窺わせる。

 「詩は人類の母語である。造園が耕地に ―、絵画が文字に ―、歌が朗読に ―、比喩が推論に ―、交換が取引に先立つように。深き眠りこそは我らの祖先の休止。また彼らの動きとは陶酔によろめく舞踏。七日の間、熟考のために黙し、あるいは愕きのため声もなく彼らは座していた。― ― そして、ついに口を開いて、― 飛びかける言を語った。/感覚と激情が語り、 解するのは形象に他ならない。形象にこそ人間の認識と至福のすべての宝は存する。[…] 」

啓蒙主義の知性偏重に対して、感覚と激情の復権が唱えられる(疾風怒濤のゲーテやロマン主義がその影響下に出発していく)。さらに、「バッカスよ、来たれ。汝の豊穣の角を葡萄で満たせ/垂穂で冠を編み、頭を飾れ、ケレスよ」と、異教の狂躁(オルギア)まで呼び出す言葉は、ニーチェのディオニュソスを先取りする。『美学の堅果(くるみ)』は、啓蒙主義の「新語神学 Neologie 」を論敵に据えて、「神の言葉」の真の理解を詩の言葉の復権として跡づけるマニフェストであるが、こうした記述は、啓蒙理性の涸渇した知性宗教より、むしろ異教の情熱のうちに信の真実が隠されてあると示唆する。神の言葉の実相は、むしろそちらに「へりくだって」保たれていると。

 遡って『ソクラテス追憶録』では、「我々自身の生存 Daseinと我らの外なる全ての現実存在 Existenzは、信じられねばならず、他のいかなる仕方においても決定しえない」と述べていた。キルケゴールの「実存」を先取りするこの表現で、ハーマンは、知の基底にすら信があることを指摘する。

 「かくして、ソクラテスは安んじて無知たりえた。彼は一つの霊 Geniusを持ち、その知に己を委ねることができたし、これを彼の神として愛し畏れた。この霊の平和は、[…]理性の全てに勝って重要であったし、その声を彼は信じた。またその「風」によって […] ソクラテスの空虚な悟性は聖き処女の胎のように実り豊かになりえたのである。」

「ダイモーン」によるソクラテスの導き。それは、「風=霊(同義)」による胚胎として、マリアの「聖霊」による受胎に準えられる。知の「デモーニッシュ」な側面と、「性」や「出産」への密接な関わりが示唆されている。

 『ある巫女の婚姻試論』に還ろう。ほかならぬレギーナとの婚姻が、ハーマンにとって性の理解の深化に、またこの書の成立に、大きな役割をはたしたという。

 巫女は婚姻という「対立の一致」の秘儀を、(女の立場から)「身に覚えのある」経験として叙述してゆく。――男の最初の印象は彼女に嫌悪を呼び起こした。彼女は男の激情を軽蔑し、自分の精神性への志向をより優れたものとして誇った。しかしほかならぬその争いの直中、男の愛の誠実のおかげで、彼女は自分をまさしく性的な存在として認識する。プラトンの『饗宴』に登場する男女の半球のように、自分も相手も、結び合い一体となることによってそれぞれが本来の形を獲得する存在と悟る。

 「男の魂の強さがすべて私の魂の内へ移りゆく様に思われる一方、私の〈激情〉の〈反作用〉によって彼の魂は、幼なさの残る女の欲情において深く息づく様に見えた。」

それぞれに自己を知った者の出会いは、「共感」へと高まる。性的合一の霊肉一体的体験によって、彼女は、向かい合う者が互いの本質を己がものとし合う人格の深い交流こそ真理であることを悟りえた。そしてこれこそは、「アダムはエヴァを知った」と述べられる聖書的「知」の本来の姿に他ならない。

 巫女はさらに、「へりくだり」において神・男・女は「三位一体」であると述べる。人間の神への関わりはそれほどまでに、身体的なものの中に深く刻印されている。

 「それゆえ、すべて〈ヒューメン (Hymen) の密儀〉は、暗き夢であり、かの〈深き眠り〉に関わる。この眠りの内にて、初めの女〔Mannin=男の似姿〕は世に来たり、全て生けるものの母を雄弁に物語る模範〔=予型〕 となった。」

ここでハーマンは、「ヒューメンの密儀」、すなわち「婚姻」を初代教会に遡る「解釈の四重の意義」に則って提示している。

文字どおり(=字句的解釈@) 性に与る身体的器官(処女膜)を指す言葉が、
結婚の女神「ヒュメナイオス」をも意味し、象徴的に(=寓意的解釈A) 男女の結合の神的基礎付けをも指し示す。
それはさらに「清き結合の紐帯」として男女間のモラルを規定し(=道徳的解釈B)、
ついには救済史的な(=終末論的解釈C)「讃歌 Hymne」に結んで、人間創造の究極目的の成就を表すに至る。

ハーマンはこれを、言葉を代えて、「神的本性また人間的本性(Natur=自然)の恥部 Pudenda こそは、両者の一体化の核心である」と言い表す。「私にとって、恥部こそが被造物と創造者の間の唯一の絆であると思われる」。 このように婚姻は、人間の身体的・エロス的側面に始まり救済史的観点に至るまで、神人「両性の交流 communicatio idiomatum」に深く共鳴し、それゆえにまた、キリストにおける神人の宥和(「対立の一致 coincidentia oppositorum」)を映し出す感性像(予型)とされる。

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 ゲーテにとって婚姻は、「法というものが孕んでいる神話的な暴力」の圏域で執行される破滅の一形態を意味した。忌避(懈怠)が彼の抵抗の姿であった。ハーマンの「巫女」もまた、フリードリヒ婚姻法のもとでのプロイセン体制を批判する。だがそれは、幾重にも意義の充填された「言葉」としての世界の現実を、啓蒙理性の浅薄な理解に閉じ込めることへの批判である。ハーマンは、牧羊神の地上性を示し、何よりもその半人半獣的形姿、また淫乱多情な特性を強調した。性的存在としての牧羊神への注目は、人間を霊肉一体のものと見る聖書の立場から、その肉体性を挑発的なまでに強調する。しかし、「神のへりくだり」こそは、本来そのような人間存在の地上性や自然の「言葉」との結びつきを肯定している。かかる神の語りに聴くハーマンは、取り澄ました啓蒙精神を批判し、己が自然を捨象する「理性の純化」志向が、我が身を「去勢」して人間「性」の毀損に陥ることを暴く。

 「激情が不名誉の器官であるからといって、男の武器で無くなることがあろうか。君たちが理性の文字を解する仕方は、天国のために己が身を去勢したアレクサンドリア教会のアレゴリーの侍従〔オリゲネス〕 が聖書の文字を解したその仕方〔マタイ19章12節〕 よりも賢いであろうか」 (『美学の堅果(くるみ)』)。

                       (総合詩誌「PO」179号・特集「詩とエロス」のために寄稿)

参照●『ある巫女の婚姻詩論』テクスト



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